第1話 私だけ留学生特別科
入学式の翌日。
エリシアは、王立貴族学園の大広間で、一枚の紙を凝視していた。
「…………」
何度見ても、書いてある文字は変わらない。
『エリシア・ローゼンベルク――留学生特別科』
「…………留学生?」
思わず呟いた。
自分は、生まれも育ちもカイラード王国である。
前世は日本人だが、もちろん学園側がそんなことを知っているはずもない。
それなのに、なぜ?
どうして留学生特別科なのか?
「それでは、各自所属する科を確認した者から、指定された教室へ移動するように」
壇上で教師が告げる。
王立貴族学園には、大きく分けて三つの科が存在した。
一つ目は、魔術科。
――火、水、風、土の四属性魔術を使った戦い方を学ぶ。
二つ目は、騎士科。
――剣、槍、体術などの物理攻撃を中心とした戦い方を学ぶ。
そして三つ目が――
「留学生特別科……」
その名の通り、本来は国外からやってきた留学生を受け入れるための特別課程である。
カイラード王国は、周辺諸国と比べても突出して国民の平均レベルが高い。
この国には地理的な理由から強力なモンスターが多く出現し、それに対抗するため、国民も幼い頃から戦闘訓練を受けるのが普通だった。
そのため、国外からカイラード式の訓練を学ぶためにやってくる者も多い。
とはいえ、彼らをいきなりカイラードの通常科へ放り込むわけにもいかない。
そこで、まずは基礎からカイラード式の戦闘訓練を学ばせるために設けられたのが、留学生特別科だった。
だが、毎年ほんの数名、カイラード国民も在籍することがある。
国内基準ではあまりにもレベルが低く、魔術科にも騎士科にも安全に参加させられない生徒が出た場合、
『諸外国の学生との異文化交流』
という、聞こえの良い名目で留学生特別科へ回されるのだ。
要するに。
(国内落ちこぼれ枠ぅぅぅぅ!!)
エリシアは心の中で頭を抱えた。
自分はLv10。
成人の平均がLv100前後という、この異常な戦闘国家において、どう考えても普通ではない。
(でも、まさか留学生に混ぜられるとは思わないじゃない!)
周囲を見る。
魔術科へ向かう生徒たちは、いかにも自信に満ちている。
騎士科へ向かう生徒たちは、意気揚々と笑い合っている。
その中を、エリシアは一人、とぼとぼと留学生特別科の教室へ向かうのだった。
なんとなく肩身が狭い。
(大丈夫よ。留学生特別科って言ったって、別に悪いクラスじゃないんだから)
外国からわざわざ学びに来るくらいなのだから、他国では優秀者のはずだ。
ただ、カイラード基準では弱いだけ。それだけである。
(……まあ、それが一番問題なんだけど)
指定された教室へ到着すると、すでに二十人ほどの生徒が集まっていた。
エリシアが教室へ入ると、一斉に視線が集まる。
「……わぁ、すごく綺麗な子」
「カイラードの人?」
「何でこのクラスにいるんだろう?」
エリシアは、できるだけ目立たないよう、静かに自分の席に座る。
やがて教師が教室へ入ってきた。
「全員揃ったようだな」
五十代くらいの男性教師だった。
身体つきは逞しく、立ち姿にも隙がない。
この国では教師ですら普通に強そうなので怖い。
いや、戦闘訓練所と化した学園の教師を務めるくらいなのだから、実際とんでもなく強いはずだ。
「改めて説明しておく。この留学生特別科では、諸外国から来た者を対象に、カイラード式戦闘教育の基礎を教える」
教師は黒板へ大きく文字を書く。
基礎訓練。
対人訓練。
対モンスター討伐訓練。
どれも嫌な予感しかしない。
「母国では既に相当な訓練を積んできた者もいるだろう。しかし、ここでは一度、自分の経験を忘れるつもりで学べ」
教室のあちこちで返事が上がる。
「なお、今年はカイラード国民も三名、この科へ所属する」
ざわっ。
教室の空気が変わった。
(やっぱり珍しいのね!?)
エリシアは嫌な汗をかいた。
教師が名簿を見る。
「まず、フリッツ・ベルナー」
「はい!」
教室の前方から、一人の少年が立ち上がった。
標準よりもふくよかな体格で、かなり丸みのある頬。
制服の腹回りは少々きつそうで、体を鍛えているようには見えない。
「次、リリアーヌ・エーベルハルト」
「……はい」
今度は教室の後方で、おずおずと少女が立ち上がった。
淡い栗色の髪に眼鏡をかけた、いかにも大人しそうな令嬢だった。
立ち上がっただけで、緊張のあまり泣きそうな顔をしている。
「最後に――エリシア・ローゼンベルク」
「…………はい」
エリシアも立ち上がる。
留学生のために設けられた特別科に、わざわざ入れられたカイラード国民。
(千人近くいる生徒の中で、私みたいなのが三人だけ……)
少なくとも、このクラスには自分のような低レベルが、もっと大勢いると思っていた。
だが実際には――たった二人。
自分以外には、それしかいなかった。
(……やっぱり私、相当弱いのね)
分かっていたはずだった。
薪一本まともに割れず、重い水桶も持てない。
そこらにいる普通の子どもにすら負ける。
それでもどこかで、
『自分だけが特別おかしいわけではないかもしれない』
と思いたかったのだろう。
どうやら、その期待はかなり甘かったらしい。
「この科では出身国も、身分も関係ない。全員が同じ生徒だ。互いの文化を尊重しながら学ぶように」
一通りの説明が終わったところで、とある生徒が手を挙げる。
「あの、先生。留学生特別科から、魔術科や騎士科へ移ることはできるのでしょうか?」
「もちろん可能だ」
教師は力強く頷いた。
「この科は、あくまでカイラード式の戦闘訓練へ適応するための課程だからな。十分な実力がついたと判断されれば、年度途中でも通常科への編入は認められる」
「どのくらいのレベルがあれば、通常科へ移れるんでしょうか」
「一概には言えんが……目安は最低でもLv50だな」
エリシアは固まった。
(ご、五十……?)
さらに、教師は何でもないことのように続ける。
「それ以下では、通常科の実技訓練に参加させること自体が危険だ。特に騎士科では対人戦もある。魔術科でも、実戦形式の訓練になれば相応の身体能力が必要になるからな」
「…………」
エリシアの現在――Lv10。
通常科の必要最低ライン――Lv50。
(五倍……)
あまりにも遠い。
単純に数字が五倍だから、五倍努力すればいいというものでもない。
経験を積み、モンスターを倒し、身体を鍛えなければ上がらないのだ。
さらにレベルが上がるほど上がりにくくなり、成長の速さには個人差まである。
机の下で、自分の細い手を見る。
(私、本当にこの世界で生きていけるのかな……)
だって今の自分は、どこからどう見てもLv10の最弱底辺令嬢なのだから。
* * *
その頃。
学園の事務棟では、一人の男が職員たちを困らせていた。
「だから、女を探してる」
「……はあ」
鮮やかな金髪に青い瞳。
制服越しでも分かる異常なほど鍛え抜かれた身体。
カイラード王国の王子、レオンハルトである。
机を挟んで座る事務官は、額に汗を浮かべていた。
王子直々の頼みである。
無下にはできない。
しかし――情報がなさすぎた。
「殿下。もう一度確認させていただいても?」
「何だ」
「その女性のお名前は?」
「知らん」
「家名は?」
「知らん」
「所属する科は?」
「知らん」
「……お顔立ちは?」
「覚えてない」
事務官は黙った。何一つ分からない。
「では、髪の色などは……?」
「さあ」
「瞳は?」
「分からん」
「背丈は?」
レオンハルトは少し考える。
「俺より小さい」
「…………」
目の前の190cmほどの巨漢の王子を見上げた。
――もれなく全女子生徒が該当する。
事務官は遠い目をした。
「何か……他に特徴は?」
「ああ」
何かを閃いたように、レオンハルトの顔がぱっと明るくなった。
ようやく有力な情報が出るのか。
「強い」
「……はい?」
「俺と同じくらいだ」
「…………」
「俺を一発で殴り飛ばした」
事務官の表情が止まった。
「それから、俺が本気で追っても逃げ切った」
「…………」
レオンハルトは満足そうに腕を組んだ。
「これだけ分かれば見つかるだろう」
「…………」
事務官は答えなかった。
「頼んだぞ」
それだけ言い残し、レオンハルトは部屋を出ていく。
残された事務官たちは、しばらく無言で見つめ合った。
やがて、一人が小さく呟く。
「……殿下と同じくらい強い女子生徒?」
別の職員が首を振る。
カイラード王国が誇る人類最強の王子。
騎士の頂点に立つ大騎士団長ですらLv190台なのに対し、レオンハルトは人間の壁とされるLv200を遥かに超えたLv255である。
「そんな女子生徒が、学園はおろか、この世にいるわけがない」
事務官は、匙を投げたい気分だった。
第2話 通常科か修道院か
その日の夕方。
学園からローゼンベルク公爵家へ戻ったエリシアは、着替える間もなく父親の執務室へ呼び出された。
「…………」
そもそも父親が、自分をわざわざ執務室へ呼ぶ時点でろくなことがないのだ。
エリシアは扉の前で小さく息を吸い、覚悟を決めてノックした。
「入れ」
低い声が返ってくる。
「失礼いたします」
扉を開ける。
執務机の向こうには、父――エルンスト・ローゼンベルク公爵が座っていた。
机の上には、一枚の書類。
見覚えがある。
学園から届いた所属科の通知だった。
(やっぱりこれかぁ……)
帰りたい。
今すぐ自室へ帰りたい。
しかし、そういうわけにもいかない。
エリシアが部屋へ入ると、父親は書類を机へ叩きつけた。
バンッ!
「留学生特別科とは、どういうことだ!」
「…………」
予想通りだった。
「説明しろ!」
「……えっと、その、私のレベルでは、魔術科にも騎士科にも通常通り参加することが難しいと学園側が判断したようです」
「そんなことは聞いていない!」
では何を聞いているのだろう。
そう思ったが、口には出さなかった。
「お前はローゼンベルク公爵家の娘だぞ!」
「……はい」
「それが、外国人どもに混じって基礎訓練だと!?」
父親の顔が怒りで赤くなる。
「よりにもよって、留学生特別科など……!」
エリシアは黙って聞いていた。
父親が怒っているのは、娘の身を案じてではない。
国内生徒がそこへ所属するということは、通常科についていけないほど弱いことを意味する。
ローゼンベルク公爵家の令嬢が、国内落ちこぼれ枠へ入れられた、その事実が許せないのだ。
「この無能め!」
「…………」
「ローゼンベルク家の恥さらしが!!」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「そもそも、公爵家の血を引く者は、生まれながらに高い魔力を持つはずなのだ! それなのに、なぜお前は……」
エルンストはそこで言葉を切った。
この世界で一般的に使われる属性魔術には、火、水、風、土の四属性がある。
そして、使える魔術の規模によってF級からS級までに分類されている。
魔力量には個人差があるが、カイラードでは爵位が上の家ほど、代々高い魔力を受け継いでいる傾向が強い。
一般的には、男爵家なら10程度から、王家ともなれば900近くに達する。
平民なら魔力を持たない者が普通だが、公爵家ともなれば、どれほど低く生まれても、400を下回ることなど通常はありえない。
C級以上は当然、B級以上の高度な魔術が使えるのも珍しくないのだ。
だからこそ――
「なぜお前には、魔力が一滴もないのだ!!」
「…………」
エリシアの魔力量はゼロ。
公爵令嬢としては低い、などという生易しい話ではない。
もはや貴族として異質な存在であった。
「……申し訳ありません」
頭を下げる。
謝ったところで、Lv10がLv100になるわけでもない。
ましてや、魔力が増えるわけでもない。
魔力量は生まれた時点で決まり、生涯変化しないのだから。
身体を鍛えればレベルは上げられる。
魔術を訓練すれば、同じ魔力量でもより高度な術を扱えるようになる。
けれど、そもそも持っていない魔力だけは、どれほど努力しても増やすことができなかった。
「まったく……ここまで恥さらしだったとは」
吐き捨てるような声。
「いいか」
父親の声が低くなる。
「次の進級時までに、必ず通常科へ移れ」
「……え?」
思わず顔を上げた。
「通常科へ、ですか?」
「当然だ!」
「ですが、私のレベルは――」
「上げればいいだろう!」
あまりにも簡単に言われた。
「他の者はできている! なぜお前にできん!」
「…………」
それが分かれば苦労しない。
「もし、来年になっても留学生特別科などに居座っているようなら――」
一度、言葉を切る。
そして、はっきりと宣言した。
「お前は修道院へ入れ」
その瞬間、ぎゅう、と胸の奥を掴まれたような感覚だった。
「……修道院?」
「そうだ。来年までに通常科へ上がれ。それができぬなら、それまでにまともな嫁ぎ先を見つけろ。どちらもできぬようなら修道院へ送る」
「…………」
エリシアは茫然とする。
だが、冷静に考えれば――。
(別にそこまで悪くないのでは?)
冷遇する父親から離れられるし、魔力を何より重んじる貴族社会からも距離を置けて、無理に結婚する必要もない。
この学園で命がけの戦闘訓練を続ける必要だってない。
質素な生活になるだろうが、今だってまともに公爵令嬢として扱われてないのだから。
(むしろ、一番安全じゃない?)
静かな修道院で、穏やかに暮らす。
今の自分の状況を考えれば、それが一番平和な気さえする。
――なのに。
ぽろり、と突然、涙が頬を伝った。
(え?)
エリシアは固まった。
慌てて拭う。
だが、また一粒。
次から次へと、勝手に涙が溢れてくる。
「…………え、え?」
胸が苦しくて、悲しくて、痛い。
何か取り返しのつかないことをしてしまうような。
誰かに対して、ものすごく申し訳ないことを――
(何これ!?)
前世の来島エリとしての意識が、一気に混乱した。
修道院にトラウマなどない。
今世の十六年間にも、そんな記憶はない。
なのに「修道院」と聞いただけで、身体が勝手に泣いている。
(何なのよ!)
乙女ゲームの世界へ転生した。
原作と違うことが次々起きて、攻略対象も明らかにおかしい。
そんな状況で、理由もなく涙が止まらなくなる場所へ、
『まあ安全そうだし修道院でいいか』
などと行けるほど、エリシアは楽観的ではなかった。
(ぜ、絶対に行っちゃ駄目な気がする……)
理由は分からないし、修道院そのものが怖いわけでもないが、心のどこかが頑なに叫んでいる。
――そこへ行ってはいけない。
「お前……」
父親が眉をひそめた。
エリシアが慌てて涙を拭う。
「申し訳、ありません……」
だが、エルンストは娘の異変を気遣うどころか、苛立ったように机を叩いた。
「泣くほど修道院へ行くのが嫌なら、レベルを上げればいいだろう!」
「…………」
「一年あるのだ! 他の者ができることを、お前だけできぬなどという言い訳は許さん!」
「……はい」
「それとも、泣けば私が考えを変えるとでも思ったか!」
「いいえ。そのようなつもりは……」
本当に、そんなつもりではない。
そもそも自分でも、なぜ泣いているのか分からないのだから。
「ならば結果を出せ! 通常科へ上がるか、まともな嫁ぎ先を見つけるか。どちらかだ!」
「……承知いたしました」
「話は終わりだ。下がれ」
「はい」
エリシアは一礼し、執務室を出た。
そのまま、しばらく廊下に立ち尽くす。
指先で頬に触れる。まだ少し濡れていた。
(……なんであんなに、悲しかったんだろう)
そういえば、原作のエリシアには修道院ENDもあったけれど……。
「……今考えても仕方ないわね」
それより、もっと切実な問題がある。
エリシアは自室へ向かいながら、頭を抱えた。
現在Lv10。
目標は一年以内にLv50。
無理なら嫁入り。
それも駄目なら修道院。
(Lv50って、一体どうすればいいのよ……!)
第3話 側室なんてお断り
エリシアは、いつもより少し重い足取りで王立貴族学園へ向かっていた。
昨日、父エルンストから言い渡された言葉が、頭から離れない。
来年までに通常科へ上がれ。
できなければ嫁ぎ先を見つけろ。
それも無理なら修道院。
現在Lv10。目標Lv50。
「…………」
道のりは遠すぎる。
だが、修道院送りも嫌だ。
理由は分からないが、『修道院』という言葉を聞いただけで、勝手に涙が溢れてきた。
どう考えても何かのフラグのような気がしてならない。
妙に胸へ引っかかるが、今は考えても仕方がない。
エリシアは小さく息を吐き、留学生特別科の教室へ入った。
「やあ、ごきげんよう」
待ち構えるように、カイラード人のクラスメイト――フリッツ・ベルナーが立っていた。
「おはようございます」
とりあえず挨拶を返す。
「昨日は驚きましたよ」
「何がですか?」
「貴女です」
フリッツがエリシアを上から下まで眺める。
その視線に、エリシアはわずかに眉を寄せた。
「ローゼンベルク公爵家のご令嬢なのでしょう? 噂には聞いていましたが、本当にお綺麗ですね」
「……ありがとうございます」
褒められているはずなのに、なぜだろう。
ろくな予感がしない。
「でも、公爵令嬢ともあろう方が、なぜ留学生特別科にいらっしゃるのですか?」
「…………」
できれば聞かないでほしかった。
公爵令嬢として諸外国との交流を学ぶため――などと答えられれば格好がつくのだが、同じクラスにいる以上、どうせすぐに知られるだろう。
「……わたくしには魔力がなく、Lv10だからです」
「…………」
フリッツの顔が止まった。
「魔力なし?」
「はい」
「……Lvも、じゅう?」
「そうだと言っております」
わざわざ確認しないでほしい。
フリッツはしばらくエリシアを見ていた。
「なんだ」
「……え?」
声の調子が変わった。
つい数秒前まであった、公爵令嬢に対する妙に丁寧な響きが、綺麗さっぱり消えている。
「君、そんなに弱かったんだ」
「…………」
エリシアは瞬きをした。
――君?
さっきまで『貴女』だったような。
「僕はLv33だからね」
フリッツが得意げに胸を張る。
「君よりずっと強い」
「……そ、そうですか」
(この人ですらLv33なの!?)
と、内心は失礼極まりない感想を抱くが、それも仕方ない。
どう見ても、鍛錬をしている体形には見えないのだから。
だが、そのフリッツですら、自分の三倍以上。
やはり自分は、とんでもなく弱いらしい。
「でも、安心していいよ」
「何がです?」
「君くらい綺麗なら、魔力がなくても、Lv10でも全く問題ないからね」
何の問題だ。
「僕が守ってあげる」
嫌な予感が急速に膨らんでいく。
「エリシアって呼んでいい?」
「駄目です」
即答した。
「え?」
「まだお知り合いになったばかりですので、ローゼンベルクとお呼びください」
「そんな堅いこと言わなくてもいいじゃないか」
なんで急に馴れ馴れしいのだ。
エリシアは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「ところで、君って婚約者はいないんだろ?」
「……おりませんが」
「やっぱり」
何が『やっぱり』なのか。
フリッツは満足そうに頷く。
「じゃあさ、僕の側室にならない?」
「…………」
時間が止まった。
「……はい?」
聞き間違いであってほしかった。
しかしフリッツは、むしろ良い提案をしたという顔をしている。
「君、魔力がゼロなんだろ? 正妻にはできないけどさ」
この国では、貴族の婚姻と魔力は切り離せない。
正妻の産む子は家督を継ぐ可能性があるため、爵位に応じて相手にも一定以上の魔力量が求められる。
公爵令嬢でありながら魔力ゼロのエリシアは、正妻候補としては非常に扱いづらい。
だが、家督継承権を持つ子を産まない側室なら話は別だった。
「側室であれば、魔力量なんてそこまで問題にならないからね」
フリッツは笑う。
「君くらい綺麗なら、隣に置くだけで悪くないと思うんだ」
「…………」
「僕の家なら、一生困らない生活をさせてあげられるよ」
その言い方が癪に障る。
まるで、エリシアにとって願ってもない話であるかのように、何様のつもりなのだろう。
「Lv10じゃ、一人で生きるのだって大変だろ?」
さらにフリッツは胸を張る。
「僕が守ってあげるよ」
「結構です」
「え?」
「お断りいたします」
フリッツが目を丸くする。
「いや、でも僕、伯爵家だよ?」
「結構です」
「…………」
フリッツの顔に、『なぜ断る?』と書いてある。
エリシアは頭が痛くなってきた。
「だから僕が一生面倒を見てあげるって言ってるんだけど」
「頼んでおりません」
「でも君の家だって困っているんじゃないの?」
「…………」
その言葉だけは、少し刺さった。
「戦えるわけでもない。魔術も使えない。公爵家の役に立つとしたら、結婚くらいだろ?」
「…………」
昨日、父親から言われた言葉が蘇る。
『通常科へ上がれぬなら、それまでにまともな嫁ぎ先を見つけろ』
エリシアは、ゆっくりフリッツを見る。
この男と結婚したいか?――絶対に嫌だ。
ではもし、フリッツ本人からの軽い申し出ではなく。
ベルナー家からローゼンベルク家へ、正式な縁談として話が持ち込まれたら?
「…………」
エリシアの背筋が冷えた。
父は、どうするだろう。
フリッツなら家格の問題で断る可能性もある。
けれど、もっと条件のいい相手だったら?
有力な侯爵。莫大な財産を持つ大貴族。
それこそ、自分の父親より年上の男であっても、ローゼンベルク家に十分な利益をもたらすなら――
(……お父様は、私が嫌だって言っても、聞いてくれない)
エリシアは確信した。
娘の気持ちより家の利益。
昨日の父親の態度を思い出せば、答えは明白だった。
「君、本当に分かってる?」
フリッツが言う。
「君みたいに弱い女の子を守ってあげようって言ってるんだよ?」
「…………」
弱い。
その言葉が、妙に重く聞こえた。
今までは、弱いということは、薪が割れないとか、重い物を持てないとか、訓練についていけないとか。
その程度のことだと思っていた。
けれど、違う。
弱ければ――自分の人生まで、誰かに勝手に決められるかもしれない。
自分の未来なのに、自分で選べないのだ。
「…………嫌です」
エリシアは、今度ははっきり言った。
フリッツが眉を寄せる。
「だから――」
「わたくしの将来は、わたくしが決めます!」
「…………」
フリッツが、ぽかんと口を開ける。
エリシアはそれ以上何も言わず、自分の席へ向かった。
胸の奥では、一つの数字だけが、先ほどよりずっと重くなっていた。
Lv50。
(絶対に、上がってみせる……!)
エリシアは拳を握る。
父親に人生を決められないために。
誰かの側室として売られないために。
自分の人生くらい――自分で選び取れるように。
第4話 俺を殴った奴、出てこい!
次の日。
エリシアは、妙な違和感に気づいた。
「……何か、騒がしくない?」
いつもより、生徒たちの声が大きい。
しかも話題は、どうやら一つに集中しているらしい。
「本当なの?」
「昨日も騎士科へいらっしゃったんですって!」
少し先を歩く女子生徒たちが、興奮した様子で話している。
エリシアは何となく耳を傾けた。
「まさかレオンハルト殿下が、女性をお探しになるなんて……!」
「…………」
エリシアの足が止まった。
聞いてはいけない名前が聞こえた気がする。
「入学式の日に出会った方なんでしょう?」
「そうみたい!」
「どんな令嬢なのかしら!」
エリシアの顔から、みるみる血の気が引いた。
(まさか……私?)
いや、まだ決まったわけではない。
入学式の日には、大勢の女性がいた。
別の用事で、レオンハルトが他の誰かを探している可能性だって――
「なんでも殿下ご本人が、『俺を殴った奴を探している』って仰ったらしいわ!」
「…………」
終わった。
完全に自分である。
(しょ、処刑される!!)
今世では、王子の婚約者でもなければ、嫉妬に狂ったわけでもないのに、悪役令嬢は処刑ENDから逃れられない運命なのだろうか。
「でも、おかしくない?」
別の女子生徒が首を傾げた。
「何が?」
「レオンハルト殿下を殴れる女性なんて、本当にいると思う?」
「……あ」
「殿下ってLv255でしょう?」
「騎士団長でも無理なんじゃない?」
「普通の女子生徒が殴ったって、吹き飛ぶわけないわよね」
「そうよねぇ……」
エリシアは物陰から聞き耳を立てた。
(何でか知らないけど、本当に吹き飛んだのよ……!)
しかし、そんなことを知るはずのない少女たちは、全く別の結論へ到達した。
「きっと比喩なんじゃない?」
「比喩?」
「ほら……美しさのあまり頭を殴られたような衝撃を受けた、とか!」
「まあ! それって、つまり一目惚れ!?」
何がどうしてそうなった。
「顔も名前も分からないのに、ずっと探していらっしゃるんでしょう?」
「きっと運命の恋ね!」
「…………」
エリシアだけが真実を知っている。
レオンハルトは恋してない。
『殴った』は比喩でも何でもなく、言葉通りの真実だ。
(絶対、捕まえて処刑するつもりなんだ……!)
王族の顔面を殴打。
しかも数メートル吹き飛ばし、口から血まで流させ、謝罪もせず逃亡。
改めて並べてみると、どう考えても言い逃れできない。
(修道院ENDどころか、このままじゃ処刑END一直線じゃない!!)
その時、カーン、カーン、カーン――と、大きな鐘の音が響いた。
「何?」
周囲の生徒たちが一斉に顔を上げる。
ほどなくして教師たちの声が飛んだ。
「全校生徒、校庭へ集合!」
「…………」
嫌な予感がする。
ものすごく嫌な予感がする。
だが、自分だけ行かないわけにもいかない。
エリシアは死刑台へ向かう囚人のような気持ちで、校庭へ歩き出した。
* * *
校庭には、全校生徒が集められていた。
騎士科、魔術科、留学生特別科。
教員はおろか用務員さんまで勢ぞろいしている。
一体何事なのか。
ざわめきが広がる中。
校舎側から、一人の青年が姿を現した。
「…………っ!」
エリシアの身体が固まった。
顔だけ見れば乙女ゲームの攻略対象にふさわしい超絶美形なのに、それ以上の存在感を放つ筋肉。
レオンハルト・カイラードその人である。
(い、一体何が始まるの!?)
レオンハルトは校庭の中央まで歩くと、その場で立ち止まった。
そして、大きく息を吸う。
(やめて)
エリシアの本能が警報を鳴らす。
(お願いだから、何も言わないで……!)
だが願いは届かなかった。
「入学式の日!!」
レオンハルトの大声が校庭中へ響いた。
「俺を殴った奴!! ここにいるなら出てこい!!」
千人以上の生徒や教師が、一斉に固まる。
エリシアも固まり、
(いやぁぁぁぁぁぁ!!)
と、心の中だけで絶叫した。
当然ながら、出られるわけがない。
エリシアは前にいた生徒の陰へ、そっと身を縮めた。
すると、「大丈夫だよ」と横から声がした。
「…………?」
――フリッツだった。
なぜか、エリシアの前へ一歩出ている。
「殿下の大声に驚いたんだろ?」
「……はい?」
「僕の後ろにいればいい」
「…………」
いらない。
――いや。
今だけは、ちょっといる。
フリッツのふくよかな身体は、非常に優秀な遮蔽物だった。
校庭中央では、誰も名乗り出ないことに、レオンハルトが眉を寄せている。
「聞こえているだろ!」
聞こえている。
ものすごく聞こえている。
だからこそ出られない。
教師の一人が、おそるおそる彼へ近づいた。
「殿下」
「何だ」
「もう少し、その方の特徴を仰っていただければ……」
「特徴?」
レオンハルトが考える。
エリシアは息を呑んだ。
自分で言うのも難だが、前世は平凡顔で生きてきたため、客観的に見て今の自分がとんでもない美少女である自覚があった。
サラサラの淡い水色の髪と、宝石のようなキラキラした紫の瞳。
顔立ちは冷たい印象を与えるほど整っており、可憐というより端正で高貴な美貌。
(これだけ特徴的な見た目なんだから、さすがに何か一つくらい覚えているでしょう……!)
「強い」
「…………」
教師が黙った。
「俺と同じくらい強い」
校庭全体が黙った。
「それから速い。俺が本気で追いかけても逃げ切った」
誰かが呟く。
「……そんな奴いる?」
「いないだろ……」
「人間なのか?」
(人間です!!)
エリシア本人も、訳が分からなくなってきた。
「俺を殴った時は、一発で吹き飛ばされた」
教師が額を押さえた。
「殿下」
「何だ」
「それは本当に、本校の生徒だったのでしょうか」
「学園にいたんだから、そうだろ」
「お顔は?」
「覚えてない」
エリシアの肩から、少し力が抜ける。
「髪の色は?」
「知らん」
「…………」
助かった。
何も覚えていない。
「顔もよく覚えていないのに忘れられないなんて……! まさか運命の出会い?!」
「強いっていうのも、惚れたほうが負けっていう、殿下なりの惚気なのかしら?」
(違う!!)
エリシアだけが心の中で猛烈に突っ込む。
しばらくして、とうとう業を煮やしたレオンハルトは、大声で宣言した。
「逃げられると思うな!」
そして。
「俺は絶対に諦めん! 必ず見つけ出してやるからな!!」
女子生徒たちから、黄色い声が上がった。
完全に『何としてでも運命の女性を探し出す王子』として解釈されている。
だがエリシアには、地の果てまで王子暴行犯を追い詰める被害者の雄叫びにしか聞こえなかった。
(終わった……)
修道院。
望まない結婚。
そして――王子暴行罪による処刑END。
人生の逃げ道が、日に日に塞がれていく。
第5話 なんで私だけ上がらない
留学生特別科では、本格的な戦闘訓練が始まった。
「…………」
エリシアは訓練場へ足を踏み入れた瞬間、早くも帰りたくなった。
広大な校庭。
中央には何面もの訓練区画が設けられ、その周囲を騎士科、魔術科の生徒たちが使用している。
――ドゴォン!!
突然、遠くで地面が爆発した。
視線を向けると、騎士科らしい男子生徒が、盾ごと数メートル吹き飛ばされていた。
空中で二回転し、そのまま地面へ背中から落ちる。
「ぐあっ!!」
「立てぇ!! 実戦ならそこで死んでるぞ!!」
教官の怒声が飛んだ。
男子生徒は咳き込みながら立ち上がり、再び剣を構える。
その正面では、別の生徒が大剣を肩へ担いで待っていた。
「次ぃ!!」
「うおおおおお!!」
再び激突する。
木剣ではなく、普通に金属製の剣だった。
刃こそ潰してあるようだが、当たれば絶対に痛い。
というか、さっき盾がへこんでいた。
(…………)
エリシアは静かに視線を逸らした。
すると今度は別方向から、
「《火炎》!!」
という叫び声と共に、火の玉が飛んだ。
「えっ」
対戦相手の女生徒が横へ跳ぶ。
ドンッ!!
さっきまで彼女が立っていた地面が爆ぜた。
土煙が上がり、芝生が燃えている。
「狙いが甘いぞ! 殺す気でいけ!!」
教官が叫んでいた。
(もはや完全に乙女ゲームの学校じゃない……)
分かっていた。
ここは、この国の次世代戦力を育てるための教育機関だ。
貴族の子女が集まり、舞踏会の作法や詩歌を学びながら攻略対象と恋に落ちる――そんな場所では決してないのだ。
「ローゼンベルク!」
びくり。
担当教官に呼ばれ、エリシアは振り返った。
「はい!」
「ぼんやりするな! 今日からお前たちも実戦訓練だ!」
(か、帰りたい……)
「まず、基本的な育成過程を説明する。カイラードでは、幼い頃から基礎体力と護身術を鍛える。低レベル帯ならば、身体を鍛えるだけでも経験値は得られるため、まずは訓練だけでLv30前後まで上げるのが一般的だ」
「…………」
エリシアは固まった。
Lv30。
それは学園で目指すレベルではなく、子どもの頃に到達している数字だと言うのだ。
(私、そこにも届いてないんですけど!?)
教師は続ける。
「その後は、対人訓練やモンスター討伐も交えながら鍛える。一般的な成人でLv100前後だ」
Lv100。
知っていたが、改めて聞かされると絶望感が違う。
「もっとも、成長速度には個人差がある。同じ訓練をしても上がりやすい者、上がりにくい者はいる。だが低レベル帯なら、正しい訓練を積めばほとんどの者は伸びる」
「…………!」
エリシアの目が少しだけ輝いた。
(ほとんどの人は……)
なら、自分だって上がるのでは?
地方屋敷にいた頃は、本格的な戦闘訓練などしていない。
王都へ来てからも、使用人仕事ばかり。
ただ、鍛え方を知らなかっただけかもしれない。
「では始める。まず訓練場を百周だ!」
「…………はい?」
聞き間違いだと思った。
「準備運動だ。始め!」
「準備運動ぉぉぉ!?」
百周が?
前世の感覚ならフルマラソンである。
そんなエリシアの動揺などお構いなしで、周囲の生徒たちが一斉に走り出した。
エリシアも慌てて追いかける。
だが、周囲との差が、どんどん開いていく。
外国人留学生たちも、息があがってはいるものの、普通に走っている。
そして。
「はぁ……はぁ……!」
――フリッツ。
顔を真っ赤にし腹を揺らし、死にそうな顔をしながら、エリシアより前にいた。
(フリッツにまで負けてるぅぅぅ!!)
「し、死ぬ……」
「まだ準備運動だぞ」
教師の叱咤の声が、さらにエリシアを絶望の底に突き落とした。
そこからも、地獄の特訓は続く。
巨大な丸太を担いで急坂を駆け上がり、教官の放つ風弾を避けながら、崖同然の斜面や深い溝を越え――エリシアは、ほとんどまともにクリアすることすら出来なかった。
それでも、一度も休まなかった。
(Lv50……)
父に修道院送りにされないために。
(絶対に、Lv50……!)
嫌な結婚を押しつけられないために。
(死んでも、Lv50になる…!!)
レオンハルトに見つかった時、処刑される前に逃げる力を持つために。
強くなる。
自分の人生を選ぶには、強くなるしかないのだ。
その日の夕方。
全身を筋肉痛で震わせながら、エリシアは学園内にある戦力測定晶へ手を置いた。
淡い光と共に数値が表示される。
『Lv10』
「…………」
もう一度。
『Lv10』
「…………」
一日で上がるわけがない。
そうだ、焦る必要はない。
真面目に何カ月も続けていれば、きっといつか――
「よし」
エリシアは小さく拳を握った。
「諦めない! 明日も頑張ろう」
* * *
それから、一か月。
「…………」
エリシアは、戦力測定晶の前に立っていた。
この一か月――
本当に頑張った。ものすごく頑張った。
最初は準備運動の訓練場百周すらできず、崖から落ちて死にそうになった。
それが今では、遅いながらも最後までクリアできる。
身体は確かに変わっている。
(だから、今度こそ……!)
エリシアは戦力測定晶へ手を置いた。
光が広がり、数値が表示された。
『Lv10』
(あ、あれ? 見間違いかな)
目をこすって、また見る。
『Lv10』
(故障してるのかも?)
もう一度、起動する。
『Lv10』
「何でよぉぉぉぉ!!」
悲鳴が訓練場に響いた。
少し離れた場所では、他の生徒たちが次々と結果を確認している。
「お、四つ上がってる!」
「俺は三つだ!」
留学生たちは嬉しそうだ。
カイラード式の訓練は過酷だが、その分、きちんと成果が出ている。
「よし!」
聞きたくない声がした。
フリッツですら――
『Lv35』
一か月前はLv33。
二つも上がっている。
「やっぱり僕、やればできるんだな」
「…………」
レベルが一つも上がってないのは、エリシアただ一人だけだった。
「ローゼンベルク」
教師がやってきた。
「はい……」
「もう測り直す必要はない」
「ですよね……」
すでに三回測って、全部10だった。
教師が腕を組む。
「一か月これだけ訓練して全く動かないのは、今まで見たことがないな」
「…………」
「通常であれば、怠けていたのではないかと疑うところだが、私はお前が真面目に取り組んでいる姿をきちんと見ている」
「……はい」
真面目にやっていたことは、教師からも認められていた。
だが、それは決して喜ばしいことではなく、むしろ頑張っても無駄という烙印を押されたようなものである。
「そもそも、普通に生活しているだけで、その歳であればLv20くらいにはなるはずなんだが……」
エリシアは、その言葉に絶望感に打ちひしがれた。
父から与えられた期限は一年。
一か月でレベルの上昇はゼロ。
この調子でLv50なんて。
(無理では?)
修道院――父親の言葉が浮かぶ。
結婚――フリッツの顔が浮かぶ。
そして――『必ず見つけ出してやるからな!!』というレオンハルトの声が頭に響く。
(もう人生、詰んでない?)
通常科へ行けない。
修道院へ行っちゃ駄目な気がする。
好きでもない男へ嫁ぐなんて嫌だ。
レオンハルトに見つかったら処刑されそう。
そして、いくら努力しても、レベルが上がらない。
「…………」
ふと、一つの考えが浮かんだ。
(……待って)
そもそも、なぜカイラード国内で何とかしようとしているのだろう。
この国はおかしい。
王子はLv255の人外。
学生ですらLv100を超えている者が珍しくない。
明らかに戦闘民族国家である。
だが、他国は違う。
留学生たちの話を聞いていても、カイラードほど国民全体のレベルは高くないらしい。
「…………!」
エリシアの目が輝いた。
(国外へ逃げればいいんじゃない!?)
そうだ。
何も、この国で生きなければならない決まりはない。
悪役令嬢ものと言えば――国外追放。
(そうよ! 追放される前に、自分から逃げちゃえばいいのよ!)
素晴らしい。
修道院送りからも逃れられる。
父からも離れられる。
嫌な縁談も断てる。
レオンハルトからも逃げられる。
何より、他国なら、カイラードほど高いレベルを要求されない。
もしかしたら、Lv10でも普通に生きられるかもしれない。
「よし」
久しぶりに、エリシアの顔が明るくなった。
(いざとなったら国外逃亡よ!)
この時。
エリシアはまだ知らなかった。
その希望すら、粉々に打ち砕かれることを。
第6話 スライムにも勝てない
授業の終わり際、教官が生徒たちを呼び止めた。
「近頃、各地でモンスターの出現数が増えている」
エリシアが顔を上げる。
「高Lvの個体については騎士団が定期的に討伐しているため、王都周辺で遭遇することはまずない。だが、スライムなどの低Lvモンスターまでは完全に駆除しきれん。学園内へ入り込むこともある」
教官は、さも当然のことのように続けた。
「見つけた場合は各自で対処するように」
「はい!」
周囲の生徒たちが普通に返事をする。
「…………」
(各自で……?)
エリシアだけが、なんとなく不安を覚えた。
そして授業を終え、廊下を歩いていたエリシアの耳に聞き慣れない音がする。
「…………あれ?」
ぴちゃ。
「…………」
視線を下へ向ける。
そこにいたのは、半透明の丸くてぶよぶよしたもの。
前世でゲームをしたことのある人間なら、十人中十人がこう呼ぶであろう生物。
――スライム。
(……さっき言ってたやつ!?)
エリシアとスライムの視線が合った――ような気がした。
ぴょんと、スライムがこちらへ跳ねる。
「ひっ!」
一歩下がるエリシアに、ぴょんと、また来るスライム。
「ちょ、ちょっと待って」
スライムとは、ファンタジー世界における、最弱モンスターの代名詞である。
なら、Lv10の自分でも勝てるだろうか?
一瞬、そう思った。
だが、どう戦えばいい?
そもそもスライムって、殴って倒せるものなのか?
そんなことを考えている間にも、ぴょんと、どんどんこちらに近づいてくる。
「きゃっ!」
エリシアは逃げた。
ぴちゃぴちゃ物音を立てながら、後ろから追いかけてくるスライム。
「来ないでぇぇぇぇ!!」
スライムの速度は遅い。
しかしエリシアも鈍足だった。
距離が縮まらない。
かといって離れもしない。
地獄の低速追いかけっこが始まった。
「誰かぁぁぁぁ!!」
夢中で逃げるその先は――行き止まり。
「…………え」
エリシアの顔から血の気が引いた。
背後から、ぴちゃぴちゃと、スライムが迫ってくる。
「いや……」
後ろは壁で、逃げ道なし。
目の前のスライムに、どう攻撃して良いのかも分からない。
「来ないで……!」
ぴょん。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
「何してるんだ?」
聞き覚えのある声がした。
「え?」
スライムの後ろから、フリッツが出てきた。
「フ、フリッツ様!」
「何を騒いで――」
フリッツがスライムを見ると、何てこともないように平然と言う。
「なんだ。スライムじゃないか」
「へ?」
フリッツが近づく。
「ほい」
ぺしっ。
スライムを足で踏んで、あっさり倒した。
「…………」
エリシアは固まった。
あれほど自分を追い詰めていたモンスターが瞬殺である。
一撃というか、もはや駆除。
戦闘ですらなかった。
フリッツは得意げに胸を張った。
「どうだい?」
「……何がです?」
「僕って強いだろ?」
「…………」
「やっぱりLv10の君には危ないよな。安心していいよ。僕が守ってあげるから」
腹立たしい。
ものすごく腹立たしい。
しかし、今回は反論できなかった。
実際、助けられたのだ。
「……ありがとうございます」
フリッツは非常に満足そうだった。
「ほら。だから僕の側室になれば――」
「それとこれとは別です」
その時。
「あ、またスライム。この頃ほんと多いよね」
別の声がする。
少し先で、留学生が廊下の端を指差した。そこにも小さなスライムがいた。
エリシアが身構えるが、留学生は平然としている。
「邪魔だな」
持っていた本の角で思い切り潰した。
「…………」
その向こうでも。
「また入ってきたの?」
魔術科の少女が、面倒そうな顔をして、ぱちんと指先から小さな火花を出す。
スライム消滅。
「…………」
さらに。
「あ、足元」
「ん?」
ぺしっ。
別の生徒が普通に踏んだ。
「…………」
エリシアは周囲を見回した。
誰も騒いでいない。
モンスターが出た。
そういう緊迫感が一切ない。
完全に害虫扱いである。
前世で言えば、腕に止まった蚊か廊下を這う小さな虫か。
せいぜい、ゴキブリ程度――そんな扱いだった。
しかも、退治しているのはカイラード人だけではない。
外国から来た留学生も、普通に対処している。
「…………」
エリシアの顔が、だんだん青ざめていく。
(待って)
他国なら、普通に生きられるかもしれない。
つい数分前まで、そう思っていた。
なのに、その『他国』からやってきた留学生たちも、スライムくらいは当たり前に倒している。
「…………」
さらに、ある不安に思い至った。
国外へ逃げるには、王都を出る必要がある。
王都周辺は騎士団が常に巡回しているため、Lvが高いモンスターは、あらかた駆逐されている。
だが、王都を離れ、地方へ行けば行くほど凶悪モンスターの出現率は増えていく。
国境まで行くとなれば、その危険は計り知れない。
護衛を雇う? お金は?
父親に知られず、どこから出す?
一人で逃げる?
今、スライム一匹から逃げていた自分が?
「…………」
エリシアの表情から、希望が消えていった。
(私……)
修道院からも結婚からもレオンハルトからも、逃げればいいと思った。
(でも、逃げることすらできないんだ……)
弱すぎて。
国外で暮らせるかどうか以前に、そこまで辿り着くことすらできない。
「…………」
エリシアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
一か月、毎日訓練しても、それでもLv10。
弱小モンスターの代名詞であるスライムにさえ、何もできない最弱底辺令嬢。
それが、まぎれもない自分という存在だった。
「…………」
その時。
一つ、どうしても説明できない出来事が、頭に浮かんだ。
入学式の日。
Lv255の人外の強さを持つ王子とぶつかりそうになった。
「…………」
自分は、あの男を――
レオンハルトを殴った。
ただ拳が当たっただけではなく、一発で何メートルも吹き飛ばしたのだ。
「……おかしい」
どう考えても、おかしい。
Lv10の自分は、今、スライム一匹に追い詰められた。
なのに、あの時だけ、レオンハルトに拳が届いて、ダメージまで与えた。
その後、彼がすごい速さで追いかけてきても逃げ切った。
「…………」
火事場の馬鹿力?――違う。
そんな言葉で説明できる差ではない。Lv10とLv255だ。
何かがある。
何らかの条件で、自分でも知らない力が発揮されるのかもしれない。
そして、状況的にそのカギを握るのは――
「…………レオンハルト殿下」
違うかもしれない。
でも、もうそれしか思い当たる節がない。
原作の乙女ゲームでは、エリシアの婚約者であり、彼女の人生を破滅に追い込んだ因縁の相手だ。
怖い。
ものすごく怖い。
できることなら、絶対に近づきたくない。
向こうは自分を必死の形相で探している。
王子を殴った件で、激怒しているのだろう。
当然だ。処刑されるかもしれないことを考えると、足がガクガク震えてくる。
それでも、普通に鍛えても、レベルは上がらなかった。
国外逃亡すら無理では、もはや父親の言いなりになるしかない。
「あの時のことを……調べるしかない」
エリシアは、ぎゅっと拳を握った。
あの日、なぜ自分はレオンハルトを殴り飛ばせたのか。
もし、その理由が分かれば。
あの力をもう一度引き出せるなら――
Lv50どころではない。
この世界で、自分の人生を自分で選べるだけの力を、手に入れられるかもしれない。
「…………」
エリシアは、ゆっくり顔を上げた。
「……レオンハルト殿下に、会わなきゃ」
人生で、今ほど勇気が必要な決断はなかった。
* * *
一方、その頃。
学園の別の場所では――
「……いない」
レオンハルトが低く呟いた。
女子生徒だけでなく、男子生徒まで確認した。
それでも、入学式の日に自分を殴った相手は見つからない。
「殿下」
捜索に付き合わされていた教師が、疲れ切った声を出した。
「……何だ」
「もう、よろしいのではないでしょうか。留学生特別科まで含めて、一通り確認されたのでしょう?」
「ああ」
全員、低レベルだった。
自分を殴り飛ばした相手とは、到底考えられない。
教師は小さく息を吐く。
「でしたら……やはり、何かの勘違いだった可能性もあるのでは?」
「勘違い?」
「その……殿下は、相手のお顔もほとんど覚えていらっしゃらないとのことでしたし」
「顔はどうでもいい」
即答だった。
「だが、拳は覚えている」
教師が黙った。
レオンハルトの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
廊下の曲がり角で、ぶつかりそうになった。
そして、相手を意識する前に飛んできた拳。
真正面から頬へ叩き込まれた衝撃が頭蓋を貫いた。
身体が浮き、視界がぶれ、本当に意識が飛びかけた。
「…………」
思い出しただけで、胸が高鳴る。
口元が、わずかに上がる。
あれほど綺麗に、真正面から攻撃を受けたのは、いつ以来だろう。
幼い頃は違った。
自分より強い大人はいた。
だが、いつの頃からか、誰も自分にダメージを与えることすらできなくなった。
気づけば、騎士団の精鋭と戦っても物足りない。
国内最上位の騎士ですら、自分にまともな一撃を入れられない。
モンスター討伐ですら、もはや緊張も手応えも感じない。
Lv255。
人間が到達できると考えられていた領域を、とっくに越えてしまった。
いつしかレオンハルトは、自分が本気で殴られた時、どれほど痛いのかすら忘れかけていた。
だからこそ、あの日の一撃だけは忘れられない。
「……痛かった」
教師が怪訝そうな顔をした。
「は?」
レオンハルトは自分の頬へ触れた。
もう痛みなど残っていない。
だが、感覚だけは鮮明に思い出せる。
そして。
(……見つけた)
自分と戦える奴が、この世界のどこかにいる。
胸の奥が熱くなる。
もし、もう一度会えたら。
次は、突然殴られて終わりではない。
互いに本気で、拳をぶつけ合う。
あの拳を、もう一度受けられる。
どちらが先に倒れるか、どちらが最後まで立っているか。
(ああ……)
想像したその瞬間。
ぞくりとした快感が、背筋を駆け抜けた。
「……は」
笑いが漏れた。
教師が一歩下がる。
「殿下?」
「はは……」
止まらない。
「はははははっ!」
レオンハルトは、心の底から楽しそうに笑った。
もう一度。
もう一度、あいつと戦いたい。
今度こそ真正面から全力で。
自分が負けるかもしれない。
そんな戦いができる。
そう思うだけで、身体の奥から痺れるほどの快感に襲われた。
「殿下……?」
教師の顔が引きつっている。
だが、レオンハルトにはどうでもよかった。
「勘違いなわけがない」
「ですが、これだけ探しても――」
「いる」
断言した。
「あいつは絶対にいる」
一度味わった、あの衝撃。
あれだけは、幻でも勘違いでもない。
顔など覚えていなくても。
名前など知らなくても。
――あの拳だけは、絶対に忘れない。
「見つける。絶対に」
青い瞳が、異様なほど輝いた。
そして、獲物を見つけた獣のように、レオンハルトは笑う。
「俺が必ずお前を見つけ出してやる」
幕間 母が守った小さな世界
エリシアが七歳の頃。
地方屋敷の庭には、大きな白い薔薇の垣根があった。
王都の公爵邸ほど華やかではないけれど、春になると一斉に花をつけるその庭を、エリシアは気に入っていた。
「お母様! 見てください!」
摘んだばかりの白い花を手に、エリシアは母のもとへ駆けていく。
木陰の椅子に腰掛けて本を読んでいたセシリアは、顔を上げると柔らかく笑った。
「まあ。とても綺麗ね」
「お母様にあげます!」
「ふふ。ありがとう」
セシリアは娘から花を受け取り、大切そうに膝の上へ置いた。
エリシアはその隣へ座ると、母の読んでいた本を覗き込む。
「今日は何のお勉強ですか?」
「そうね。昨日はカイラード建国のお話をしたでしょう? 今日は、その続きにしましょうか」
「はい!」
エリシアは勉強が好きだった。
母は読み書きも、歴史も、礼儀作法も、何でも教えてくれる。
本の読み方を覚えたのも。
外国の名前を知ったのも。
貴族としての作法を身につけたのも。
ほとんど全て、母から教わった。
正しく答えると、セシリアはいつも嬉しそうに褒めてくれた。
けれど、その日は途中で、屋敷の外が騒がしくなった。
馬の蹄の音。
男たちの怒鳴り声。
そして何か大きなものが倒れるような、鈍い音。
エリシアは椅子から立ち上がった。
「何でしょう?」
「エリシア」
母の声が、急に硬くなった。
「こちらへいらっしゃい」
「でも、門のところが――」
「見てはいけません」
いつになく強い口調だった。
エリシアが驚いて振り返る。
セシリアの顔から、血の気が引いていた。
母はすぐに娘を抱き寄せ、そのまま胸元へ顔を押しつける。
「お母様?」
「大丈夫よ。何でもありません」
そう言いながら、母の腕はかすかに震えていた。
しばらくして、使用人が庭へ駆け込んできた。
「奥様。討伐は終わりました。街道へ出た個体も――」
「その話は、この子の前ではしないで」
セシリアはすぐに遮った。
使用人は一瞬だけエリシアを見て、頭を下げる。
「……失礼いたしました」
使用人が去ったあと、エリシアは母を見上げた。
「とうばつ、って何ですか?」
「知らなくていいの」
「でも――」
「エリシア」
セシリアは娘の頬を両手で包んだ。
その顔は、今にも泣き出しそうだった。
「あなたは、そんなものを知らなくていいのよ」
「どうしてですか?」
「だって……」
母の視線が揺れた。
やがてセシリアは、娘を強く抱き締めた。
「怖いことなんて何も知らずに、ここで幸せに暮らしてくれれば、それでいいの」
幼いエリシアには、その言葉の意味がよく分からなかった。
「でも、ずっとここにいるんですか?」
何気なく尋ねた瞬間、母の腕がわずかに強張った。
エリシアは続ける。
「いつか王都にも行ってみたいです。お母様が育ったところも見てみたいし、それから――」
「王都なんて、行かなくていいわ」
ぽつりと落ちた声に、エリシアは口を閉じた。
セシリアは庭の向こうを見ていた。
けれどその瞳には、薔薇の花も青空も映っていないように見えた。
「ここにいればいいの」
その声は、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
「ここなら、誰にも何も言われないもの」
エリシアには分からなかった。
なぜ母がそんな悲しそうな顔をするのか。
なぜ父は一度も会いに来ないのか。
なぜ自分たちは、この屋敷からほとんど出ないのか。
それでも、母が自分を大切にしてくれていることだけは分かった。
だからエリシアは、小さな手で母の手を握った。
「じゃあ、私はお母様とここにいます」
セシリアが目を見開く。
「ずっと一緒にいます」
しばらく黙ったあと、母は泣きそうな顔で笑った。
「……ありがとう、エリシア」
その日の夕方。
エリシアは自室の窓から、使用人たちが何か大きな獣の死骸を荷車に載せて運んでいくのを見た。
灰色の毛。
太い四肢。
鋭い爪。
見たことのない巨大な獣だった。
「…………」
思わず窓へ近づこうとする。
けれど。
「エリシア?」
後ろから母の声がした。
「さあ、お勉強の続きをしましょう」
「……はい、お母様」
エリシアは素直に窓を閉じた。
その獣が何だったのか、尋ねることもしなかった。
母が教えてくれる世界は、静かで穏やかだった。
本の中には歴史があり、国があり、領地があり、人々の暮らしがある。
どの国とどの国が隣り合っているのか。
どんな作物が育つのか。
どの家がどんな役目を担っているのか。
セシリアは、そんなことなら何でも教えてくれた。
けれど――
その国を歩く街道に何が現れるのか。
町の外へ出た人々が何を恐れているのか。
剣を持つ者たちが、何と戦っているのか。
母は、一度も教えなかった。
魔力もない。身体も強くない娘を、セシリアは外の世界へ出すつもりなどなかったのだ。
ただ、この屋敷の中で。
自分の傍で、怖いものなど何も知らず、穏やかに生きてくれればいい。
そして幼いエリシアもまた――
母の作った、小さく優しい世界の外に何があるのかを、まだ知らなかった。
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