序章

第一話 転生した世界がおかしい

来島エリは、どこにでもいる十六歳の女子高生だった。

漫画もゲームも普通にやるし、友人の間で流行っていれば一度くらいは触れてみる。
ただし、特定の作品へ人生を捧げるほどのオタクではない。

好きなものは好き、面白そうならやってみる。

その程度だった。

そんなエリの学校で、最近とくに流行っているゲームがあった。
『花咲く王国で恋をして』――通称『花恋』

美しい王国を舞台に、平民出身の少女がカイラード王立貴族学園へ入学。
王子や宰相子息、護衛騎士、教皇の息子といった、イケメンたちと恋をする乙女ゲームである。

休み時間になると、

「レオンハルト様のイベント見た!?」

「私はセドリック派!」

「ジークルートは絶対やった方がいいって!」

などと、教室のあちこちから攻略対象の名前が聞こえてくる。

あまりに皆が話題にするものだから、プレイしていないと会話についていけない。
そこで「まあ話の種くらいにはなるか」という軽い気持ちで始めてみた。

ところが、これが思った以上にクリアが難しい。
そこで学校帰り、エリは本屋へ立ち寄り、『花恋』の公式攻略本を探していた。

幸い、ゲーム攻略本の棚には目当ての本が平積みにされている。

「お、あった」

一冊手に取り、ぱらぱらとページをめくる。

(やっぱりイラストは綺麗なんだよね。攻略対象、全員びっくりするくらい顔がいいし)

最初に目に入ったのは、金髪碧眼の美青年だった。

――レオンハルト・カイラード。

カイラード王国の王太子にして、正統派攻略対象。
端正な顔立ちと華やかな雰囲気を持ち、傲慢で尊大ではあるものの、それを補って余りあるカリスマ性を備えた王子様である。

(顔だけならレオンハルトが一番好みかなぁ。でも、リアルにあの俺様気質と暮らすのはちょっと疲れそう)

次のページには、知性を瞳に宿す美青年――宰相家嫡男セドリック。
さらにページをめくれば、病弱で儚げな教皇の息子リュシアンや、条件を満たさなければ出現すらしない、魔性の美貌をもつ魔族王子アシュレイが載っている。

そして、エリが一番「現実にいたら結婚相手として最高」と思っていたのが、護衛騎士ジーク・クラウゼルだった。

深みのある赤茶の髪に、落ち着いた焦げ茶の瞳。
王子のような派手さこそないものの、精悍で整った顔立ちをしており、何より性格がいい。

一途で、誠実で、責任感が強く、どんな状況でも筋を曲げない。

(ゲームならレオンハルトもいいけど、リアルに結婚するなら絶対ジークよね。こういう人の方が安心して暮らせそう)

そんなことを考えながら攻略本を立ち読みしていると、すぐ隣から視線を感じた。
顔を上げると、中学生くらいの少女が同じ攻略本を抱えたまま、こちらをじっと見つめている。

目が合った、次の瞬間――

「あなたも花恋が好きなの!?」

「え?」

少女は突然エリの腕を掴むと、目を爛々と輝かせた。

「めっちゃいいよね、花恋!!! 誰推し!? 私は最初レオンハルトだったんだけど、セドリックルートやったらもう駄目! でもリュシアンも尊いし、隠しルートのアシュレイなんて――」

「ちょ、ちょっと待って。速い、速いから」

見た目はかなり可愛い。
だが、中身は相当濃いタイプらしい。

エリが若干引きながらも、その勢いに押されて話を聞いていた時だった。

ゴゴゴゴゴ――。

足元から、不気味な振動が伝わってきた。

「……え?」

店内の照明が揺れ、吊り下げられた看板が大きく左右へ振れる。

その直後、床そのものが跳ね上がるほどの大きな揺れが襲ってきた。

「地震!?」

「きゃあああっ!」

棚から大量の本が落ち、店内のあちこちから悲鳴が上がる。
エリは反射的に、目の前の少女を抱き寄せるようにして身をかがめた。

その時。

ミシッ――。

すぐ近くで、嫌な音がした。

顔を上げると、自分たちの目の前にあった巨大な本棚が、ゆっくりとこちらへ傾いている。

「…………」

そこに詰め込まれていたのは、『花恋』の攻略本や設定画集だけではない。

――悪役令嬢もののライトノベル。
――剣と魔法のバトル系少年漫画。
――世界史から日本史まで網羅した歴史書。

ありとあらゆるジャンルの本が、自分の身長をはるかに超える巨大な書架へぎっしりと収められていた。
それが、凄まじい勢いでこちらへ倒れてくる。

逃げる時間はなかった。

(――あ、これ、やばい)

最後に目に入ったのは、『花咲く王国で恋をして 公式完全攻略本』の表紙だった。

そこで、エリの意識はぷつりと途切れた。

* * *

そして目が覚めた。

「…………」

エリは鏡の前で固まっている。

正確には、鏡の中に映っている少女を見て固まっていた。

淡い水色の髪が腰まで流れ、その下には白磁のような肌と、澄んだ紫色の瞳がある。
十六歳という年齢相応の幼さをわずかに残しながらも、顔立ちは恐ろしいほど整っている。

可憐というより端正で、少し冷たい印象すら与える絶世の美少女だった。
平凡な日本人顔だったエリとは、似ても似つかない。

だが、この顔をエリは知っている。

さっきまで本屋で見ていたのだから。

『花咲く王国で恋をして』に登場する、主人公の恋路を邪魔する悪役令嬢。
エリシア・ローゼンベルクである。

「…………え、嘘。転生、した?」

恐る恐る頬をつねってみる。

普通に痛い。
もう一度つねってみても、やっぱり痛かった。

「いやいやいや、待って。どういうこと?」

混乱しながら頭を抱えた瞬間。

今まで自分のものではなかったはずの記憶が、一気に脳裏へ流れ込んできた。

来島エリとして生きた十六年間の記憶が消えたわけではない。

それとは別に、この世界でエリシアとして生きてきた十六年間の記憶も、最初から自分自身が経験した出来事だったかのように鮮明に思い出せる。

二つの人生。

二つの記憶。

その両方が、今の自分の中に存在していた。

「…………本当に悪役令嬢転生じゃん」

最近読んだ小説で、何度も見た展開である。

ただし、おかしな点が一つ。

エリシアは、ゆっくりと自分の服を見下ろした。

色褪せたワンピースは、ところどころ擦り切れている。
その上から、どう見ても使用人用としか思えない古びたエプロンを身につけている。

顔を上げる。
鏡には、どう見ても超上流階級のお嬢様が映っている。

「…………いや、私って公爵令嬢だよね?」

もう一度部屋を見回す。

豪華な天蓋付きベッドも、高級な家具もない。
あるのは簡素な寝台と、小さな机と椅子だけ。

――完全に使用人部屋だった。

「おかしいでしょ! 原作でも父親から冷遇されてたけど、ここまでじゃなかったはず!」

原作のエリシアも、決して恵まれた少女ではない。
公爵家の長女でありながら魔力をまったく持たず、父親からは実子であることすら疑われていた。母も出産時に亡くし、使用人たちからも陰で馬鹿にされて育った。

それでも、公爵令嬢としての誇りだけは失わなかった。
魔力がないなら、それ以外で誰にも負けなければいい。

そうやって完璧な礼儀作法と教養を身につけ、ついには王太子の婚約者へ選ばれる。
そこでようやく、父親たちの態度も変わった――という設定だったはずである。

だが、今世の記憶はまるで違う。

幼いエリシアは、母親と二人で王都から遠く離れた地方屋敷に暮らしていた。
魔力ゼロのエリシアが生まれたせいで、父は母の不貞まで疑い、母娘を「療養」の名目で地方へ追いやった。

母は境遇を嘆きながらも、貴族としての教養や礼儀作法を教えてくれた。
出産時に母が亡くならなかったのは、原作よりも幸運なことかもしれない。

だが、エリシアが十五歳の時。
その母が、病で亡くなった。

一人になったエリシアは、仕方なく王都の本邸へ戻され、そこで待っていたのは、

『魔力すら持たぬ者を、ローゼンベルク家の令嬢として扱う必要がどこにある』

実の父親からの使用人同然の扱いである。

「…………いや、原作より全然悪化してるじゃん」

エリシアは頭を抱えた。

どうしてこんなことになったのか。

さらに今世の記憶を辿っていく。
すると、すぐにもっと大きな問題へ行き当たった。

「…………魔王?」

思わず間の抜けた声が出た。

この世界には、魔王がいる。

――いや、魔王だけではない。
凶悪モンスターが跋扈し、剣と魔術で戦う世界だった。

強さがなければ、身分が高かろうと生き残れない弱肉強食の乱世なのだ。

「いやいやいや、待って待って。花恋って、こんなゲームじゃなかったよね?」

そりゃあ原作にも魔術は存在していた。

だが、それはほとんど貴族の権威を彩るための舞台装置でしかなかった。

舞踏会で美しい光を見せる。
学園の授業で初級魔術だけを学ぶ。
高い魔力を持っていれば「さすが高貴な血筋」と褒められる。

それだけである。

魔力がなくても、生活に困るわけではない。

だから原作のエリシアも強い劣等感こそ抱いていたが、魔力ゼロというだけで生命の危険にさらされるような世界ではなかった。

ところが、今世では違う。

平民は武器を手に取り、貴族は実戦的な魔術を用い、凶悪なモンスターと戦った。
原作では権威の象徴だった魔力が、今ではそのまま戦闘力になっているのだ。

そしてエリシアには、その魔力が全くない。

今世で父親から使用人同然の扱いを受けている理由も、これで理解できる。

「…………これ、もしかしなくても、かなりまずくない?」

エリシアの脳裏に、本屋で自分へ倒れてきた巨大な書架が浮かんだ。

『花恋』の攻略本、悪役令嬢ものラノベ、剣と魔法のバトル系少年漫画、歴史書。

「…………」

ものすごく嫌な予感がした。

(まさか、本棚に入ってた別ジャンルまで混じったとか?)

いやいやいや、そんな馬鹿な……
そもそも人間が本棚の下敷きになったからといって、本の内容が混ざった異世界へ転生する理由が分からない。

「いや、まだよ。まだ希望はある」

エリシアは自分に言い聞かせるように呟いた。

そうだ、世界観が多少変わっていたところで、原作キャラクターたちまで全部変わっているとは限らない。
何より、自分には頼れる人間が一人いるはずだった。

「ジーク!」

その名前を口にした瞬間、少しだけ気持ちが明るくなる。

ジーク・クラウゼル。
原作乙女ゲームにおける攻略対象の一人にして、エリシアの護衛騎士。

幼い頃からローゼンベルク家に仕え、エリシアが冷遇されていた頃も、王太子の婚約者となった後も、そして破滅へ向かっていった後でさえ、ただ一人変わらぬ敬意をもって接していた男だった。

原作では、嫉妬に狂ったエリシアはヒロインへ禁呪を仕掛けようとした罪で処刑される。
だが、ジークルートだけは、彼がヒロインと共に救命へ奔走したことで修道院送りまで減刑された。

(結局ヒロインとくっつくんだから、エリシアへの想いは恋愛じゃないんだろうけど……もう忠義心だって何だっていい! あのジークなら、私を見捨てるはずがないもの)

こんな世界で、一人だけでも確実に味方になってくれる人間がいる。

それだけで随分違う。

そう思いながら、エリシアは今世の記憶を探った。

地方屋敷、本邸、ローゼンベルク家の私兵、使用人、護衛。
そして――ジーク・クラウゼル。

「…………」

いない。

「…………あれ?」

もう一度、丁寧に記憶を辿る。
やはり、いない。影も形も。

ローゼンベルク家の騎士の中に、ジーク・クラウゼルという名前の男はいなかった。

幼少期にも会っていない。

地方屋敷にもいなかった。

本邸へ戻ってからも、エリシアに専属の護衛騎士など、一人もついていない。

「いやいやいや、待って」

エリシアの頬が引きつる。

「ジークは?」

いない。

「私の護衛騎士よね?」

いない。

「攻略対象でしょう!?」

いくら記憶を探っても、やっぱりいない。

今世のエリシアは、ジーク・クラウゼルという人物に一度も会ったことがなかった。

その瞬間、ようやく認めたくなかった可能性が、はっきりと現実味を帯びた。

変わっているのは世界観だけではない。
原作キャラクターたちの人生そのものまで、どこかで大きく改変されている。

しかも今年、十六歳になった貴族子女には、戦力育成のため貴族学園へ入学することが義務づけられている。
原作では恋と青春の舞台だった学園が、今世では未来の戦力を鍛える訓練所と化しているのだ。

そこへ、魔力ゼロ、戦闘能力皆無の自分も間もなく放り込まれる。
さらに、唯一頼れるはずだったジークまでいない。

「…………」

エリシアはしばらく無言で天井を見上げた。
学校帰りに、乙女ゲームの攻略本を探していただけだった。

本当に、それだけだった。

なのに、どうしてこうなった。

考えても答えなど出るはずがなく、やがてエリシアは一つの結論に辿り着いた。

「……あ、これ完全に詰んでるわ」

悪役令嬢エリシア・ローゼンベルク、十六歳。

前世の記憶を取り戻したその日――
彼女は早くも、自分の人生に絶望しかけていた。


第2話 公爵令嬢、メイド失格

前世の記憶を取り戻し、自分が乙女ゲームの悪役令嬢であると知った翌朝。

いつものように使用人用の古びた服へ袖を通し、屋敷の掃除をしていた。
公爵令嬢なのに、使用人同然の扱い。

もっとも、今の生活が始まったのは昨日今日のことではない。
エリシアが地方屋敷から、王都の本邸へ引き取られて、およそ一年が経っている。

最初の頃こそ、戸惑ったものだが、一年間も続けば嫌でも慣れる。
だが、この世界において、エリシアは使用人として生きるのすら過酷だった。

「…………」

庭に若いメイドが、朝から大量の薪を抱えてくる。
そのうち一人が太い薪を台の上へ置くと、斧を探すでもなく右手を振り上げた。

「ふんっ!」

バキィッ!!

太い薪が、見事に真っ二つになる。
使ったのは斧ではない――手刀だった。

「…………」

今となっては見慣れた光景である。

いや、見慣れてはいる。
だが、前世の記憶を取り戻した今、改めて見ると明らかにおかしい。

(やっぱりメイドって、そういう職業じゃないよね?)

少なくとも前世の日本で、メイドの採用条件に「素手で薪を割れること」など含まれていなかったはずだ。

だが、この世界では珍しいことではない。
モンスターが跋扈するこの世界では、平民であろうと強くなければならない。

使用人たちも例外ではなく、日々の労働で鍛えられた身体能力は、前世の常識からすれば十分に人間離れしていた。

エリシアは窓を磨きながら、一年前の出来事を思い出した。

本邸へ連れてこられて間もない頃。
使用人として働けと言われたエリシアにも、当然のように薪割りが命じられた。

目の前では、自分と同じ年頃のメイドが次々と薪を手刀で叩き割っている。
ならば、自分にもできるのではないか?
当時のエリシアは、そう思った。

魔力もなければ筋力もない。
それでも、同じ十代の少女ができることなのだから、少しくらい頑張れば何とかなるかもしれない。

薪の前に立ち、右手を振り上げた。

「えいっ!」

ぺち。

薪は、何事もなかったかのようにそこにあった。
代わりに、エリシアの右手だけが猛烈に痛む。

「~~~~っ!」

涙目で手を押さえていると、周囲のメイドたちからくすくすと笑い声が漏れた。

「まあ、お嬢様。それくらいの薪も割れないんですかぁ?」

「魔力もお持ちでないのに、力仕事までできないなんて、とんだお嬢様がいたものですねぇ」

口では『お嬢様』と呼んでいる。
だが、そこに敬意など欠片もない。

(同じ『お嬢様』でも、全然違うものなのね……)

なぜかその瞬間、攻略本でしか知らないはずのジークの姿が脳裏に浮かんだ。

まだ一度も会ったことすらないのに。

(……ジークの『お嬢様』が恋しいな)

* * *

だが、そんな生活にも、大きな変化が訪れる。

エリシアが十六歳になったからだ。

現在のカイラード王国では、十六歳に達した貴族子女は全員、王立貴族学園への入学が義務付けられている。

原作では、王侯貴族の子弟が教養を学び、友情を育み、恋をする華やかな学園だった。

ところが今世では――
魔族の復活による世情不安と、活発化するモンスターの脅威に備え、次世代の貴族を戦力として育成する訓練機関へと変貌している。

そして父エルンストが、エリシアをどれほど嫌っていようと、ローゼンベルク公爵家の長女である以上、入学義務から外すことはできなかった。

入学式を数日後に控えたある朝。

「お嬢様。こちらへいらしてください」

案内された部屋には、何人もの侍女と仕立て職人が待ち構えていた。

湯浴みをさせられ、長い髪を丹念に梳かれ、肌を整えられ、爪まで磨かれる。
最後にカイラード王立貴族学園の制服へ袖を通し、公爵令嬢として恥ずかしくないよう細部まで身なりを整えられた。

無様な格好で学園へ送り出せば、ローゼンベルク公爵家の体面に関わるからだ。

そして、全てが綺麗に仕上げられ、鏡の前に立たされた時。

「…………」

エリシア自身が、思わず黙り込んだ。

淡い水色の髪は滑らかに整えられ、澄んだ紫色の瞳を縁取る長い睫毛が、白磁のような肌によく映えている。
学園の制服は公爵令嬢らしく上質な生地で仕立てられており、立っているだけで育ちの良さを感じさせた。

一年近く古びた服で使用人仕事をしていたため、ここまできちんと身なりを整えた自分を見る機会などほとんどなかった。

(……ゲームのエリシアだ)

本屋で見た設定画そのものだった。

いや、ゲーム画面より綺麗なのではないか。
自分でそう思うのは非常に恥ずかしいが、前世の客観的な感覚で見ても、とんでもない美少女である。

そして、その事実に初めて気づいた人物がもう一人いた。

父――エルンスト・ローゼンベルクである。

学園入学前の挨拶として呼び出されたエリシアを見た瞬間、エルンストは言葉を失った。

「…………」

「お父様?」

返事がない。

父親は娘の顔から制服姿まで、珍しいものでも見るようにじっと眺めていた。
エリシアの記憶にある限り、これほど長い時間、父親からまともに顔を見られたことなど一度もない。

やがてエルンストが、ぽつりと呟いた。

「……これは、使えるな」

「はい?」

嫌な言葉が聞こえた。

「お前、いつの間にこれほどの美貌を手に入れた?」

「いつの間に、と言われましても……」

十六年間、普通に食べて寝て成長しただけである。

父親が娘の顔を、ろくに見ていなかっただけだ。

しかしエルンストの頭の中では、すでに何やら計算が始まっているらしい。
顎へ手を当て、先ほどまでとは明らかに違う目でエリシアを見る。

「貴族としてのお前は無価値だ。しかし、これだけの美貌があるなら別の使い道はある」

「…………」

「学園には王族をはじめ、将来有望な貴族子息が大勢集まる。魔力がない以上、正室は難しいだろうが、側室ならばどうとでもなる」

「…………お父様」

エリシアは、嫌な予感に表情を曇らせた。
だが、エルンストは娘の心情など気にも留めず、そのまま続ける。

「よいか。学園へ行ったら、有望な男を捕まえてこい。できるだけ身分が高く、将来性があり、ローゼンベルク家に利益をもたらす相手だ。せいぜい、その顔を有効に使って篭絡してこい!」

「…………」

つい先日まで、娘をローゼンベルク家の恥としてほとんど顧みなかった父親。

(昨日まで役立たず扱いだったのに、顔が使えると分かった途端これ!?)

エリシアは、令嬢らしい微笑みを崩さないまま心の中で叫んだ。

魔力ゼロ。
身体能力も底辺。
使用人からも役立たず扱い。

そんな自分が、いよいよ戦闘訓練所と化した貴族学園へ放り込まれるだけでも死活問題なのに――そのうえ、父親から婚活まで命じられてしまった。

学園へ入ったところで、一体何が待っているというのか。

少なくとも、原作通りの華やかな乙女ゲーム生活は有り得ない。

(……せめてジークがいてくれたらなぁ)

また、その名前が浮かんだ。

今世では一度も会ったことがない。どこにいるのかすら分からない。
それなのに、どうしてこんなにも彼を頼りたくなるのだろう。

エリシア自身にも、その理由は分からなかった。


第3話 王子様がなんかおかしい

カイラード王立貴族学園の入学式は、エリシアが想像していたよりも遥かに物々しいものだった。

原作の『花咲く王国で恋をして』では――
春の花が咲き誇る美しい中庭を抜け、生徒たちが胸を躍らせながら講堂へ向かう。
壇上では学園長が新入生を歓迎し、これから始まる華やかな学園生活を祝福する。

――そんな、いかにも乙女ゲームらしい始まりだったはずだ。

今世でも、建物そのものはほとんど変わっていない。

白亜の校舎に、手入れの行き届いた庭園。
色鮮やかな花壇の間を、格式ある制服に身を包んだ貴族の少年少女たちが歩いている。

そこだけを切り取れば、確かに原作と同じだった。

ただし。
校庭の端には巨大な訓練場があり、武器庫が建ち、生徒たちの腰にはごく当たり前のように剣が下がっている。

そして講堂で学園長が新入生へ告げた言葉も、

『諸君には今後三年間、王国を守る戦士として必要な知識と技術を身につけてもらう』

という、恋愛とはおよそ縁のないものだった。

(恋と青春はどこへ行ったのよ……)

エリシアは遠い目になった。

現在の貴族学園は、王国の将来を担う戦力を育成するための教育機関である。

貴族の子女は、全員強制入学。
一方で平民にも門戸は開かれており、十六歳の時点でLv100以上なら入学資格を得られ、Lv150以上ともなれば学費を免除された特待生として迎えられる。

もっとも、このカイラード王国において、Lv100という数字はそれほど途方もないものではない。

一般人でもLv100前後が珍しくなく、戦闘職で腕の立つ者ならLv150程度に達している者も普通にいる。
騎士団長や魔術団長といった、超一流の戦闘職でLv180前後。
さすがにLv190以上となると、国内でも数えるほどしか存在しなかった。

そして――Lv200。
そこには、人間には越えられないとされる大きな壁がある。

Lv200を超えた時点で、その者はもはや単なる「強い人間」ではない。
人の姿をした化物。――そう評されてもおかしくない領域である。

ちなみに、エリシアはLv10だった。

「…………」

改めて考えたくなかった。

小さな子どもにすら余裕で負ける。

そんな絶望的な現実を抱えたまま入学式を終えたが、講堂を出てからは別の意味でも落ち着かなかった。

「ねえ、あの方……」

「すごく綺麗……」

「どちらのご令嬢かしら?」

「見たことがないぞ」

歩くたび、周囲からそんな囁き声が聞こえてくる。右からも左からも視線を感じ、エリシアはできる限り気づかないふりをして歩いていた。

(見ないで。お願いだから見ないで……)

十五歳まで地方屋敷で暮らし、本邸へ戻ってからも社交界に出されなかったエリシアの顔を知る者はほとんどいない。
そこへ今日、初めて公爵令嬢らしく身なりを整えて現れたのだから、注目されるのも当然だった。

(目立ちたくないのに……!)

エリシアは切実に思った。

父親からは、
『有望な男を捕まえてこい』
などという、とんでもない命令を受けている。

しかしエリシア本人には、そんなつもりなど一切ない。むしろ目標は正反対だった。

この世界の自分はLv10。魔力ゼロ。
子どもにすら力負けする、正真正銘の最弱底辺令嬢である。

そんな人間が戦闘訓練機関へ放り込まれたのだから、まず考えるべきことは恋愛でも婚活でもない。

――生存だ。

目立たない。
余計なことをしない。
危険そうな人には近づかない。

攻略対象と遭遇しても、できる限り関わらない。

原作イベントなど起こさず、三年間を静かにやり過ごして無事に卒業する。

――それが最優先である。

(特に攻略対象! 絶対に近づかない!)

何しろ、本来なら護衛騎士だったはずのジークの人生すら原作から変わっている世界なのだ。
他の攻略対象がどうなっているかなど、考えたくもない。

エリシアは人の少ない廊下を選び、できるだけひっそりと教室へ向かっていた。

そして、廊下の角を曲がろうとした時。

向こう側から、一人の人影が近づいてくる。

――最初に視界へ入ったのは、髪だった。
光をそのまま糸にしたような、鮮やかな金髪。

「…………!」

エリシアの足が止まった。

カイラード王国で、これほど鮮やかな金髪を持つ者はほとんどいない。
王家の血を色濃く受け継いだ証でもある。

(嘘でしょ…!)

心臓が跳ねた。

(レオンハルト王子!?)

まだ曲がり角の向こうなので、相手の全身までははっきり見えない。

だが、その髪だけで十分だった。
そして同時に、エリシアの頭の中へ、前世のエリの記憶が蘇る。

入学式直後、学園の廊下、曲がり角。

(――これ、もしかして)

『花恋』をプレイした者なら、まず忘れない。

――レオンハルト王子との初遭遇イベントである。

ゲーム画面が、頭の中に鮮明に蘇った。

* * *

入学式を終えたばかりのヒロインは、慣れない広い学園で道に迷っていた。
地図を見ながら廊下を歩き、慌てて角を曲がった、その瞬間。

ドンッ。

『きゃっ!』

誰かとぶつかり、小柄な身体が後ろへ倒れそうになる。
だが、その腰を力強い腕が抱き留めた。

『大丈夫か』

顔を上げる。

そこにいたのは、輝く金髪と青い瞳を持つ美しい青年。
カイラード王国の王子、レオンハルト・カイラードだった。

『申し訳ありません! 私、前を見ていなくて……』

慌てて頭を下げるヒロイン。

しかしレオンハルトは、その可憐な顔を見たまま動かなかった。

そして、そっとヒロインの腕を取る。

『お前、名をなんという?』

その瞬間――
背景には大量の花、光の粒、風もないのに舞う花びら。

乙女ゲーム特有の、どう考えても現実には存在しないキラキラした演出が画面いっぱいに広がる。

王子と平民少女。
身分違いの恋の始まりを告げる、王道中の王道イベントだった。

* * *

(――そうそう、これ!)

エリシアは思い出した。

原作では、ヒロインがこの廊下でレオンハルトと出会う。
そして王子はヒロインの可憐さに心奪われ、名前を尋ねるのだ。

つまり――

(今ここにいるの、まずいんじゃない!?)

これはヒロインのイベントだ。
悪役令嬢が割り込んでいい場面ではない。

一刻も早く退散しなければ!

そう考え、エリシアが踵を返そうとした、その時だった。

角の向こうから、金髪の人物が姿を現す。

そしてエリシアの脳裏に、まったく別のレオンハルトが浮かんだ。

冷たい王宮の中で大勢の貴族に囲まれている。
罪人として立たされる原作のエリシア。
ヒロインの魔力を奪う禁呪を仕掛けようとした悪女として、周囲から糾弾されている。

エリシアは、助けを求めるようにレオンハルトを見るが、彼は冷淡な顔で言い放った。

『俺は知らん』

「…………っ!」

その瞬間、身体が勝手に動いた。

原作エリシアが抱えていた恐れなのか憎しみなのか。
今のエリシア自身が、破滅の象徴であるレオンハルトへ感じた恐怖なのか。

あるいは二つの記憶が混ざり合った、単なる条件反射だったのか。

――エリシア自身にも分からない。

ただ、気づいた時には右拳を握り締め、目の前へ思い切り振り抜いていた。

ドゴォッ!!

「ぐはっ!!」

「…………え?」

人が飛んだ。
――比喩ではない。

本当に飛んだのだ。

金髪の青年の身体が横向きに吹き飛び、そのまま廊下を数メートル滑って、壁際でようやく止まった。

「…………」

静寂。

エリシアは自分の拳を見る。

次に、吹き飛んだ男を見る。

そしてもう一度、自分の拳へ視線を戻した。

(今……私、何した?)

じわじわと血の気が引いていく。

「…………あ」

違う。
違う違う違う。

これはまずい。

かなりまずい。

相手が誰だと思っている。
レオンハルト王子なのだ。

原作では、エリシアを断頭台に送った因縁の相手だろうと、王族であることに変わりはない。

その王子の顔面を、公爵令嬢が、思い切り殴り飛ばした。

「…………」

処刑。

その二文字が頭をよぎった。

(終わったぁぁぁぁぁ!!)

破滅回避どころではない。

入学初日に開始早々、王子を殴打。
悪役令嬢人生――即終了である。

だが、それ以前に、
(なんで吹っ飛んだの!?)
エリシアは自分の右手を凝視した。

薪一本割れない手だ。
折れそうなほど細く、筋肉も全くついてない。

Lv10。
魔力ゼロ。
この一年間、嫌というほど自分の弱さを証明してきた体である。

それなのに、大の男を数メートルも吹き飛ばした。

どう考えてもありえない。

「…………」

恐る恐る、倒れている男へ視線を戻す。

そして、エリシアは固まった。

「……え?」

先ほどは金髪しかまともに見えていなかった。
だから気づかなかった。

男がゆっくりと起き上がり、その全身が露わになった瞬間、エリシアは目を見開いた。

まず目に入ったのは、肩だった。
――広い。ものすごく広い。

続いて腕。
――太い。明らかに太い。

制服の上からでもはっきり分かるほど発達した胸板。

「…………誰?」

思わず声が漏れた。

顔は知っている。

鮮やかな金髪に青い瞳。
彫刻のように整った、華やかな美貌。

間違いなくレオンハルト・カイラードである。――顔だけなら。

問題は、その顔から下だった。

(いやいやいやいや!!)

エリシアの頭の中にある原作レオンハルトは、すらりとした長身の正統派王子だった。

華やかな衣装が似合い、立っているだけで一枚絵になるような美青年である。

少なくともゲーム画面上では――こんな筋肉の塊ではなかった。

目の前の男は、明らかに鍛えすぎている。
制服を着ていても隠しきれない、常軌を逸した筋肉。
肩幅だけでも、華奢なエリシアとは別の生き物に見えるほど広かった。

(レオンハルトが……)

エリシアの口元が引きつる。

(ムキムキになってる……!!)

しかも、その口元から、一筋の赤いものが流れる。――血だ。

「ひっ」

エリシアの顔が一気に青ざめる。

殺した。
いや、生きている。

でも血が出ている。

――完全に傷害事件である。

ところが、殴られた本人は口元へ手をやり、指についた血をじっと見つめていた。

そして、笑った。

「…………は?」

それは怒りの笑みではない。

明らかに喜んでいた。心の底から。

「血……」

レオンハルトは呟く。
青い瞳が、信じられないものを見つけたように大きく見開かれている。

「俺の血か?」

「…………」

知らない。
そんな嬉しそうに確認されても知らない。

* * *

レオンハルトは舌で口の中を確かめた。
頬の内側がざっくりと切れ、頬から顎にかけて、じんじんと強い痛みが残っていた。

それだけではない。

殴られた瞬間、確かに意識が飛びかけた。

レオンハルトは、自分の頬に触れた。

「……痛っ」

そして、笑った。

まともにダメージを受けたこと。
それ自体が、レオンハルトにとっては、何年ぶりか分からないものだった。

十四歳の頃、彼のレベルは人間の壁とされるLv200を超えた。
それ以来、まともに相手になる人間は一人もいない。

騎士団の精鋭と模擬戦をしても勝負にならず、複数人で囲まれたところで結果は同じ。
モンスター討伐へ出ても、攻撃を受ける前に倒してしまう。

いつしかレオンハルトは、自分が傷つくという感覚そのものを忘れかけていた。

その自分を。
目の前の細い少女が。

たった一発で吹き飛ばした。

「…………」

レオンハルトの表情が変わる。

彼には、意識して相手を見れば、その強さをおおよそ感じ取れる獣じみた勘があった。

そして今、目の前の少女から感じるものは、自分と――ほぼ同じレベル。

「……お前」

レオンハルトは口元の血を拭い、床へ片手をついて立ち上がった。

一瞬、視界が揺れる。
顎は痛み、頬は熱を持ち、口の中には濃い血の味が広がっていた。

だが、そんなことはどうでもよかった。

青い瞳が、獲物を見つけた猛獣のように輝いている。

ただし、そこに敵意はない。
むしろ、それ以上に恐ろしいものがあった。

――純粋な好奇心と、強い相手に出会えた歓喜。

レオンハルトは口元の血を親指で拭うと、嬉しさを隠そうともせず問いかけた。

「お前、名をなんという?」

「…………」

エリシアの時間が止まった。

知っている。原作でヒロインを抱き留めた王子が言うはずだった台詞だ。
今は、ムキムキの王子が、殴られて廊下を吹き飛び、口から血を流して笑いながら同じ台詞を言っている。

「…………」

違う。
絶対に違う。

(イベントの形だけ残って全く別ものになってるぅうう!!)

エリシアの頭の中で、何かが弾けた。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

叫んだ。――そして逃げた。

「おい!?」

全力疾走である。
貴族令嬢らしさなど知ったことではない。

廊下を一目散に駆け抜ける。

「待て!」

後ろから声が飛んできた。

待つわけがない。
あんなものに追いつかれたら、何をされるか分からない。

いや、本来なら王子を殴ったこちらが謝罪しなければならないのだろう。
しかし、今のエリシアに、そんな冷静な判断力は残っていなかった。

――ただひたすら逃げる。その一心だった。

「待てと言っているだろう!」

レオンハルトも走り出す。

次の瞬間。

ドンッ!!

床が鳴った。

一歩踏み込んだだけで、巨体が弾丸のように加速する。

Lv255のレオンハルトの身体能力は、とうに常識の範疇を外れていた。
本気で走れば、普通の人間には姿を追うことすら難しい。

当然、数秒で追いつく――はずだった。

「…………なに?」

レオンハルトの目が見開かれる。

縮まらない。
それどころか、前を走るエリシアもまた、とんでもない速度で廊下を駆け抜けていた。

本人はそんなことに気づいていない。

(怖い怖い怖い怖い怖い!!)

ただ逃げているだけである。

角を曲がり、階段を飛び降り、長い廊下を一気に横切る。
自分でもあり得ない速度で身体が動いていることなど、恐怖で頭がいっぱいのエリシアには考える余裕もなかった。

その背後から、レオンハルトの叫び声が聞こえる。

「待てぇぇぇ!!」

「いやぁぁぁぁぁ!!」

入学初日の王立貴族学園を、絶世の美少女と巨漢の筋肉王子が、人間離れした速度で駆け抜けていく。
たまたま廊下にいた生徒たちは、一瞬の突風だけを感じて立ち尽くした。

「……今、何か通った?」

「さぁ?」

そして数分後。

「…………消えた?」

レオンハルトは校舎の外で立ち止まっていた。

いない。
完全に見失った。

そんなことは初めてだった。
いくらダメージを受けていたとはいえ――そんなものは言い訳にもならない。
自分から逃げ切れる人間など、これまで一人もいなかった。

しかも相手は少女だ。
細くて華奢で、一見しただけならまともに戦えそうにすら見えない。

それなのに、自分を殴り飛ばし、全力で追ってなお逃げ切った。

レオンハルトは先ほど殴られた頬へ手を当てた。
まだ熱を持ち、顎を動かせば鈍い痛みが走る。

やがて、その口元がゆっくりと吊り上がった。

「……いた」

長い間、探していた。

まともに殴り合える相手。
本気を出しても壊れない相手。

――そして、自分を傷つけることのできる相手。

「いたぞ……!」

青い瞳が、少年のように輝いている。

残念ながら名前は聞けなかった。

顔も、すでにほとんど覚えていない。
レオンハルトにとって、人間の顔立ちなど大した意味を持たないからだ。

美人だろうが不美人だろうが、そもそもそういった認識すらも存在しない。
誰かを見分ける時に重要なのは、顔ではなく、その者が持つ強さや気配だった。

だが、あの強さだけは忘れない。

あの拳、あの速度、あの気配。

次に会えば。

――必ず分かる。

「ははっ」

レオンハルトは楽しそうに笑った。

「次は逃がさん」

* * *

その頃、校舎の遥か反対側。

どうやってそこまで来たのか本人にも分からない場所で、エリシアは壁へ手をつきながら肩で息をしていた。

「はぁ……はぁ……」

いや、おかしい。
何もかもがおかしい。

まずレオンハルトがおかしい。
原作の華やかな王子様が、なぜあんなムキムキマッチョな筋肉の塊になっているのだ。

そして自分もおかしい。

「…………」

エリシアは震える右拳を見下ろした。

薪一本割れないLv10の最弱令嬢。

そのはずなのに、王子を殴り飛ばした。

それどころか、その王子から逃げ切った。
しかも先ほどの速さを思い返せば、どう考えてもLv10の身体能力ではない。

「…………何なの、これ」

答えてくれる者はいない。

だが、一つだけ分かったことがある。

昨日までエリシアは、この世界が少しおかしいのではないかと思っていた。

訂正する。
――少しどころの話ではない。

「…………原作、崩壊してるじゃないのよぉぉぉぉぉ!!」

エリシアの悲鳴が、学園の片隅に虚しく響き渡った。


第4話 宰相令息がなんかおかしい

校舎の遥か反対側まで逃げてきたエリシアが、ようやく息を整えた時だった。

「うっ……ううっ……」

どこからか、すすり泣く声が聞こえてきた。

「……?」

エリシアが廊下の先を見る。

一人の女子生徒が、壁際にしゃがみ込んでいた。

鮮やかなピンク色の髪、小柄な身体、可憐な顔立ち。――見覚えがありすぎる。

(……あの特徴的なピンク髪)

エリシアの目が見開かれた。

(まさか、ヒロイン!?)

原作『花咲く王国で恋をして』の主人公――アリエル・ロゼ。

平民出身でありながら高い魔力を持ち、その才能を認められて貴族学園へ入学する少女。
攻略対象たちから愛され、悪役令嬢エリシアと対立しながら恋を実らせていく。
言わずもがな物語のヒロインである。

そのヒロインが、なぜか号泣していた。

「ううっ……ひどい……こんなのあんまりよ……」

(何があったの!?)

まさか、すでに何かイベントが起きたのだろうか。

声をかけるべきか迷っていると、少女がふと顔を上げた。

目が合う。

「……!」

ピンク髪の少女が固まった。

次の瞬間、涙で濡れた瞳がカッと見開かれる。

「アンタぁぁぁぁぁぁ!!」

「ひっ!?」

猛烈な勢いで立ち上がった少女が、エリシアを指差した。

「その顔! エリシア・ローゼンベルクでしょ!!」

「え、ええ……」

なぜか初対面のはずのヒロインが自分を知っている。
そう思ったのも一瞬だった。

少女はずかずかと近づいてくると、エリシアの両肩を掴んだ。

「アンタ転生者でしょ!?」

「…………」

あ、これ。
絶対あれだ。

エリシアは悟った。

――ヒロインも転生者である。

「ちょっと待って。もしかして、あなた……」

少女の顔を改めて見る。

ピンク髪になっているので分かりにくかったが、その勢いと距離感には覚えがある。

「……本屋で会った女の子?」

「そうよ!!」

「やっぱり!」

「じゃあ、あなたもあの地震で……」

「気がついたらこうなってたのよ!」

アリエルは自分のピンク色の髪を引っ張った。

「しかもさっき突然、前世の記憶まで戻ってきて! アンタの中身は、どうせあの時の女子高生ってパターンでしょ! そういう展開なんでしょ!」

「……ええ、まあ」

エリシアが頷く。

するとアリエルは、再び両肩を掴んだ。

「だったら説明してよぉぉぉぉぉ!!」

「何を!?」

「どうしてこうなったのよ!!」

「知らないわよ!」

「何で攻略対象がおかしくなってるのよぉぉぉぉ!!」

「そんなこと私に聞かれても!」

アリエルは涙を浮かべたまま、さらに詰め寄ってくる。

「レオンハルト様なんて何よ、あれ! 筋肉! 筋肉! 筋肉! どこを見ても筋肉! 私の知ってる王子様じゃない!」

「あ、それは私もさっき確認したわ……」

「しかも私が近くを通ったのに、一回も顔を見なかったのよ!?」

それは原作の一目惚れイベント以前の問題である。

「で、でも……他の攻略対象は?」

恐る恐る尋ねる。

アリエルの表情が変わった。

――怒りから、絶望へ。

そして、ぽろりと涙がこぼれる。

「返して」

「え?」

「私のセドリック様を返してよぉぉぉぉぉ!!」

「知らないわよ!!」

廊下に二人の叫び声が響いた。

「何で! 何でよりによって私の最推しがあんなことになってるのよ!!」

「あんなことって何!?」

「キモオタよ!!」

「…………はい?」

「キ・モ・オ・タ!!」

一文字ずつ強調された。

「いやいや待って。セドリック様でしょう?」

「だからセドリック様よ!!」

「嘘でしょ!?」

原作のセドリックを知っていれば、その二つの単語がどうしても結びつかない。

アリエルは涙を拭いながらエリシアを睨みつけた。

「そもそもアンタが悪役令嬢なんだから、何かしたんでしょ!」

「何でそうなるのよ!?」

「転生ものって、悪役令嬢が前世知識で物語を改変するのが常識でしょ!」

「私だって前世の記憶を取り戻したの、ついこの間よ!」

「じゃあ無意識に!」

「そんな馬鹿な!」

とんだ言いがかりである。

しかもエリシアは、今世ではセドリック本人と一度も会ったことがない。
改変しようにも、改変のしようがなかった。

「と、とにかく!」

アリエルがエリシアの腕を掴んだ。

「来て!」

「どこへ!?」

「見れば分かる!」

「ちょっと待って。私、これ以上攻略対象と遭遇したくないんだけど!」

「私一人でこの悲しみを背負いたくないのよ!!」

「道連れにしないで!」

抗議も虚しく、エリシアはそのままアリエルに引きずられていった。

* * *

たどり着いたのは、学園の端に建つ別棟だった。
本校舎よりやや古く、窓のいくつかは煤で黒ずんでいる。

入り口には、『魔術研究棟』と書かれていた。

「…………」

エリシアは建物を見上げる。

なぜだろう。ものすごく嫌な予感がする。

「この中にセドリック様がいるわ」

隣でアリエルが深刻な顔をした。

「覚悟はいい?」

「か、覚悟って……」

乙女ゲームの攻略対象へ会うだけで、なぜ覚悟が必要なのだろう。

普通なら、推しキャラに実際に会えるという胸の高鳴りを抑えるための心構えではないのか。

もっとも、つい先ほど原作レオンハルトとは似ても似つかない筋肉生物を見てしまったばかりである。

原作とのギャップに耐えるという意味なら、確かに相当な覚悟が必要なのかもしれない。

(でも、セドリックよ?)

エリシアは原作知識を思い返した。

セドリック・ヴァレンシュタイン。十八歳。
王国宰相を父に持つ公爵家嫡男で、政治、外交、財政、歴史、魔術理論まで幅広く秀でた万能型の天才。

深い紺色の髪と理知的な銀灰色の瞳を持ち、制服は常に一分の隙もなく着こなす。
冷静沈着で礼節を崩さない一方、裏では状況を巧みに操る腹黒さも持つ、原作屈指の人気攻略対象だった。

(それが、キモオタ……?)

未だに信じられない。想像もつかない。

だが、研究室の奥から聞こえてきた声が、そんな僅かな希望を容赦なく打ち砕いた。

「違ぁぁぁぁう!!」

「…………」

「諸君! そこではない! なぜ誰も、この美しくも忌々しい〇・〇七秒に着目せぬのだ!!」

「…………」

「第三術式から第四術式へ接続する、その刹那! ここで魔力が散っているのである! 僅か〇・〇七秒? 否! 断じて否!! 戦場において〇・〇七秒を笑う者は、〇・〇七秒に泣くのだ!!」

「…………」

エリシアは隣を見る。

アリエルは、無言で涙を流していた。

「……あれ?」

「まだよ」

「まだ?」

「中を見て」

見たくない。
ものすごく見たくない。

しかしここまで来てしまった以上、確認せずに帰るのも怖かった。

エリシアは震える手で扉へ触れ、ほんの少しだけ開いた。

ギィィ……。

そこには、研究室というより、何かの事故現場のような光景が広がっていた。

机という机には、魔石、試験管、謎の金属片、魔術書、食べかけのパン、書きかけの論文が山積み。
床には紙が散乱し、壁一面には魔術式がびっしりと書き込まれ、部屋の隅では用途不明の魔導具が怪しく明滅している。

そして、その中央。

巨大な黒板の前に、一人の男が立っていた。

「一発ならば誤差! 百発ならば七秒! 千発ならば七十秒!!」

猛烈な勢いで数式を書き殴っている。

「七十秒あれば、諸君、大規模術式を何発叩き込めると思っている!? これを誤差と切り捨てるなど正気の沙汰ではない! 従来術式の設計者は連続運用という概念を母親の腹の中へ置き忘れてきたのか!?」

「…………」

エリシアは目を細めた。

紺色の髪――――ある。
ただし、伸ばし放題でボサボサ。

銀灰色の瞳――――あるはずだ。
だが、長い前髪と分厚い瓶底眼鏡の向こうなので、ほとんど見えない。

原作では一分の隙もなく着こなしていた制服も見当たらず、代わりに身につけているのは、いつ洗ったのか分からないほど皺だらけの白衣。

しかも極端な猫背のせいで、本来ならかなり身長があるはずなのに随分小さく見える。

「……誰?」

エリシアが呟いた。

隣から、すすり泣く声。

「だから、セドリック様よ……」

「…………」

もう一度見る。

どこからどう見ても、キモオタだった。

「嘘でしょ……」

「私だって嘘だと思いたかったわよ……」

当の本人は、入口から女子二人に覗かれていることなどまったく気づいていない。

鼻先が黒板へ触れそうなほど顔を近づけ、ぶつぶつと呟いている。

「火属性魔素を圧縮した状態で第四環へ直接流し込むから抵抗が生じる……ならば接続直前の一瞬のみ無属性へ還元し、術式内部で再着火すれば――」

カリカリカリカリカリカリ。
猛烈な速度でチョークが走る。

そして突然、止まった。

「…………」

研究室に静寂が落ちる。セドリックの肩が震えた。

「……来た」

嫌な予感がする。

「来たぞ……」

さらに肩が震える。

「来た来た来た来た来たぁぁぁぁ!!」

両手を大きく広げた。

「これである!! 魔力損失十三パーセント削減! 詠唱工程二節短縮! 理論上の威力低下なし! 諸君、刮目したまえ! これは革命である!!」

研究室にはセドリックしかいない。

諸君とは誰なのだろう。

「ふふ……ふははははは!! 吾輩は今、魔術史に新たなる一頁を刻んだのではないか!? 後世の魔術師たちが吾輩の名を教本に記す日も近――」

そこで突然、真顔になる。

「いかん」

「…………」

「まだ実証しておらぬ」

セドリックは腕を組み、重々しく頷いた。

「理論のみで己を天才と称するなど三流研究者のすることである。仮説とは実証されて初めて理論へ昇華するもの。分からぬものを分かったことにするなど、研究ではない!」

そして一拍置き、大仰に白衣を翻した。

「故に、実験あるのみ!!」

魔術式へ手を伸ばす。

(あ、嫌な予感)

エリシアがそう思った時には、すでにセドリックの手から魔力が流れ込み、床に描かれた巨大な魔術陣が眩い光を放ち始めていた。

「第三環正常! 魔力圧縮開始! 第四環への接続を確認! さあ来い〇・〇七秒! 吾輩が貴様を征服してくれよう!!」

「〇・〇七秒と戦ってる……」

「こんなのセドリック様じゃない……」

「第四環接続――ここである! 耐えろ! 耐えたまえ! 吾輩の美しき術式よ!!」

光が一段階強くなる。

セドリックが両目を見開く。

「ふははは! 見たか! 成功であ――」

ボンッ!!

爆発した。

「ぐえっ!!」

「きゃっ!」

エリシアは反射的に扉の陰へ身を隠した。

黒煙が研究室いっぱいに広がり、開いた扉の隙間からまで薄い煙が漏れ出してくる。
しばらくして煙が薄れると、床にはセドリックが仰向けに倒れていた。

白衣は真っ黒。
髪は先ほど以上に爆発し、瓶底眼鏡には大きな亀裂が入っている。

「…………」

エリシアの顔が引きつった。

「だ、大丈夫なの……?」

「知らないわよ!」

隣のアリエルも青ざめている。

二人が小声で慌てている、その時だった。
床に倒れていたセドリックの右手が、ぴくりと動く。

「……なるほど」

「生きてる……」

エリシアが安堵する。

セドリックはゆっくり身体を起こすと、割れた瓶底眼鏡を中指で押し上げた。

「爆発したな」

それは見れば分かる。

だが、彼は誰かに説明するでもなく、一人でぶつぶつと考え始めた。

「しかし、今の爆発……従来型と比較して明らかに二割以上規模が増大していた」

「…………」

「ということは――失敗ではない」

エリシアとアリエルが同時に顔を見合わせる。
どう考えても失敗にしか見えない。

だがセドリックは、煤だらけの顔に恍惚の笑みを浮かべた。

「圧縮効率が想定を上回っただけではないか! ならば第五環を追加して余剰魔力を逃がせば――」

再び黒板へ飛びつく。

「ふはははは! 魔術とは何と美しいのであろう……!」

「…………」

「あぁ、今宵も眠れぬではないか……!」

エリシアは、そっと扉へ手をかけた。

幸い、セドリックはこちらを一度も見ていない。
研究に夢中すぎて、入口に人がいることすら認識していないらしい。

エリシアは物音を立てないよう、ゆっくり、ゆっくりと扉を閉めていく。

ギィ……バタン。

エリシアは最後まで扉を閉じた。

「…………」

「…………」

廊下に静寂が戻る。

二人はしばらく無言だった。

やがてエリシアが、隣のアリエルを見る。
その目には再び涙が溜まっていた。

「……本当に、セドリック様だったの?」

「だから言ったでしょ……」

「…………」

エリシアは閉じた扉を見る。

あの向こうにいるのは、確かにセドリック・ヴァレンシュタインらしい。
髪色は同じ。魔術の才能に至っては、おそらく原作以上に凄まじい。

ただし――原作で学園中の女子生徒から憧れられていた、冷静沈着で隙のない美青年の面影は、ほぼ消滅している。

「……帰りましょうか」

「うん……」

二人は静かに研究棟から離れた。

しばらく歩いてから、アリエルが鼻をすすった。

「私のセドリック様……」

「…………」

「あんなに知的で、冷静で、格好よくて、腹黒くて……眼鏡だって薄かったのに……」

「最後、そこなの?」

「瓶底眼鏡なんて聞いてないぃぃぃ……!」

また泣き始めた。
エリシアは何とも言えない顔で、その背中を撫でる。

――レオンハルトは筋肉の塊な戦闘狂。

――セドリックは魔術研究狂いのキモオタ。

攻略対象を二人確認して、二人とも原作からとんでもない方向へ変貌していた。

残る攻略対象は、病弱で儚げだった教皇の子息リュシアンと、隠し攻略対象の魔族王子アシュレイ。

そして――今のところ、居場所すら分からないジーク・クラウゼル。

「…………」

なぜだろう。

他の攻略対象がどれほど変わっていても、ジークだけは早く見つけなければならないような気がした。

(……お願いだから)

エリシアは胸元を押さえる。

(ジークだけは、無事でいて)

どうして「原作通りでいて」ではなく、「無事でいて」と願ったのか。

エリシアは、その違和感を深く考えなかった。


第5話 天使様までなんかおかしい

「うぅぅぅ……私のセドリック様がぁ……」

貴族学園のカフェテラスで、エリシアは泣きじゃくるアリエルの背中をさする。

魔術研究棟を離れて十分。
アリエルはまだ立ち直っていなかった。

「瓶底眼鏡……ボサボサ頭……ヨレヨレの白衣……一人で『諸君!』って……誰もいないのに……」

「もう思い出さない方がいいんじゃない?」

「だって私の最推しだったのよぉぉぉ……!」

アリエルはしばらく机に突っ伏していたが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。

「あ! そういえば、ジーク様は?」

「…………」

今度はエリシアの表情が曇った。

「アンタの護衛騎士なんでしょ?」

「それが、いないのよ」

「いない?」

「今世の記憶をいくら探しても、ローゼンベルク家の騎士にジーク・クラウゼルという名前がないの。幼い頃にも会っていないし、そもそも私には専属の護衛騎士すらついてなかったみたい」

「ええ?」

アリエルが目を丸くした。

「攻略対象なのに?」

「レオンハルト様とセドリック様を見た後で、攻略対象だから原作通りの人生を歩んでいるはず、なんてもう言えないでしょう?」

「……言えない」

即答だった。

筋肉王子と瓶底眼鏡の威力は大きい。

「だから、どこか別の場所にいるんじゃないかとは思うんだけど……」

エリシアは小さくため息をついた。

「できれば早く見つけたいのよね」

なぜそこまで強く思うのか、自分でもよく分からない。
原作で最後までエリシアを見捨てなかったから――それだけのはずなのに。

「ジーク様かぁ……」

アリエルが何気なく呟いた。その瞬間――

びくっ。

身体が大きく震えた。

「……?」

エリシアが顔を見る。

アリエルの頬から、一瞬で血の気が引いて、カタカタと震えていた。

「ちょっと。どうしたの?」

「…………え?」

本人も何が起きたのか分からないらしい。

両腕を抱え込み、ぶるりと震える。

「なんか……怖い」

「何が?」

「ジーク様」

「…………ジークが?」

アリエルは眉を寄せた。

「変なの。原作のジーク様って、真面目で誠実な人だったよね?」

「そうだけど」

「なのに、思い出そうとすると……」

胸元を押さえる。

「すごく怖いの。分からないけど、震えが止まらない……」

「震えが止まらないって……」

エリシアの顔が引きつった。

「一体、何をされたのよ?」

「知らないわよ! 私にも分かんない!」

前世では、ジークは攻略対象の一人。
今世では、アリエルも彼に会ったことがない。

それなのに、名前を聞いただけでこの反応である。

「……本当に大丈夫?」

「う、うん。ジーク様のこと考えなければ平気」

「それ、大丈夫って言うのかしら……」

エリシアは首を傾げた。

ただでさえ所在不明なのに、アリエルには理由不明の恐怖反応まである。
ますます気になってしまう。

しかし、今ここで考えても答えが出るはずはなかった。
アリエルも無理に思い出そうとするのをやめたらしく、ぬるくなりかけた紅茶を一口飲む。

「……まあ、ジーク様は今すぐ探しようがないとして」

「そうね」

「他の攻略対象は……」

アリエルが指を折り始める。

「レオンハルト様は駄目」

「駄目って言い切るのね」

「セドリック様も駄目」

「あなたの最推しでしょう」

「だから余計に駄目なのよ!」

涙目になった。

エリシアは少し考える。
そして、次の攻略対象を思い出した。

「じゃあ……リュシアン様は?」

「あ」

アリエルの動きが止まった。

リュシアン・セラフィス。十五歳。
大陸でも強い影響力を持つセラフィス教団、その教皇の一人息子である。

原作では生まれつき身体が弱く、銀髪と金の瞳を持つ、少女と見紛うほど儚げな美少年だった。
性格も穏やかで心優しく、病弱ながら孤児院や救貧活動へ顔を出すような人物である。

――まさしく、天使のような攻略対象だった。

しかもアリエルは孤児であり、幼い頃からセラフィス教団の運営する施設で育っている。

「そういえば、今世のあなたもリュシアン様を知っているんじゃない?」

「知ってるって言っても、そんなに親しいわけじゃないけどね」

アリエルが答えた。

「教皇様の息子だから、たまに孤児院に来ることがあったの。小さい頃から何度か見たことがあるくらい」

「どんな人だった?」

「原作と同じよ。いつもにこにこしてて、すっごく優しかった。私たちみたいな孤児にも普通に声をかけてくれるし、小さい子が泣いてたら一緒にしゃがんで話を聞いてあげたりしてたし」

「本当に?」

「本当。そもそも病弱だから、そんなに頻繁に来るわけじゃなかったけど、来るたびに皆が『天使様が来た』って喜んでたくらい」

エリシアの顔が明るくなる。

「良かった……!」

少なくとも、アリエルの今世の記憶にあるリュシアンは、原作とほとんど変わっていないらしい。

「前世の記憶が戻ってからは、まだ直接見てないけど」

「それでも十分よ。今世の記憶があるんでしょう?」

「うん。リュシアンだけは大丈夫だと思う」

その言葉が、今のエリシアには非常に心強かった。

するとアリエルが何かを思い出したように「あっ」と声を上げる。

「そうだ。今日、リュシアン来てるわ」

「ここに?」

「入学式だから。学園の中に礼拝堂があるでしょ? 今日はそっちに顔を出す予定だったはず」

貴族学園の敷地内には、学生や教職員が祈りを捧げるための礼拝堂がある。
入学式のような大きな行事の日には、セラフィス教団上層部の人間が訪れることも珍しくないらしい。

「……見に行ってみる?」

アリエルが尋ねる。

「…………」

エリシアは少し迷った。

つい数時間前、自分は――攻略対象には絶対に近づかない。
そう誓ったばかりである。

その直後にレオンハルトを殴った。
その後、セドリックの研究室まで覗きに行った。

そして今度はリュシアンである。

(私、全然避けられてない……)

とはいえ、今度こそ原作通りだという。
アリエルの今世の記憶という、かなり確かな証言まである。

何より、攻略対象が二人連続であの有様だった以上、一人くらい正常なキャラを確認して安心したかった。
そうであれば、きっとジークも――

「……見るだけよ?」

「もちろん!」

「絶対に話しかけないからね?」

「分かってるって!」

二人は立ち上がった。

* * *

学園内の礼拝堂は、本校舎から少し離れた静かな場所に建っていた。

白い石造りの小さな教会。
尖塔の上にはセラフィス教の聖印が掲げられ、色鮮やかなステンドグラスから柔らかな光が差し込んでいる。

先ほどの魔術研究棟とは違い、こちらには煤一つついていない。

「……ここだけ見ると、ちゃんと乙女ゲームっぽいわね」

「でしょ?」

アリエルも少し安心したように笑った。

「リュシアンは本当に優しかったから。大丈夫よ」

「その言葉を信じるわよ」

二人は礼拝堂へ入った。
中では何人かの生徒が祈りを捧げ、教団関係者たちが入学式に伴う仕事をしている。

特に変わったところはない。
静かで穏やかな空間だった。

(良かった……)

エリシアが胸を撫で下ろしかけた時。

礼拝堂の奥から、何人かの女子生徒が出てきた。

「お願いです、リュシアン様!」

「私たちもセラフィス教団のお役に立ちたいのです!」

「どうか、奉仕活動に参加させてください!」

三人ほどの少女が、その場から動こうとせず誰かへ必死に訴えている。

「あそこにいるみたい」

アリエルが小声で言った。

「奉仕活動に入りたいのかな。リュシアン、昔から救貧活動とかにも顔を出してたから」

「なるほど」

原作らしい。
非常に原作らしいではないか。

エリシアの期待が高まる。

やがて少女たちの向こうから、一人の少年が姿を現した。

十五歳、華奢な身体、柔らかな淡い銀髪。少女と見紛うほど中性的で整った顔立ちである。

(リュシアンだ……!)

エリシアには一目で分かった。

攻略本で見た姿、そのものだった。

レオンハルトのように筋肉の塊になっているわけでもない。
セドリックのように、ボサボサ頭と瓶底眼鏡で原型が崩壊しているわけでもない。

(いた! ちゃんといた!)

ようやく一人。
原作通りの攻略対象がいた。

隣を見ると、アリエルも安堵したように頷いている。

「ほら。あれがリュシアン」

「本当にそのままね……!」

「でしょ?」

エリシアは感動すら覚えた。

そして女子生徒の一人が、改めてリュシアンへ頭を下げる。

「私、もっと神様のお役に立ちたいんです。どんなことでもいたしますから、どうか正式に奉仕団へ――」

その瞬間、リュシアンの微笑みが消えた。

「…………」

エリシアが瞬きをする。

「あれ?」

アリエルも首を傾げた。

少年が、ゆっくりと顔を上げる。
先ほどまで柔らかく細められていた瞳が、妙に据わっていた。

「うるせぇな」

「…………え?」

女子生徒が固まった。

エリシアも固まった。

アリエルも固まった。

リュシアンは面倒そうに頭を掻く。

「何度言わせんだ。ゴミは邪魔だから帰れっつってんだろ」

「リュ、リュシアン様……?」

「聞こえなかったのか?」

少年の口元が歪んだ。

先ほどまでの天使のような微笑みとは似ても似つかない。
人をいたぶることを楽しんでいるようにすら見える、ぞっとするほど意地の悪い笑顔だった。

そして、ガッと足で礼拝堂の椅子を蹴り飛ばす。

「テメーらみたいに弱いメス豚は神様だって救わねぇよ! 失せろクズがぁ!!」

「…………」

礼拝堂が静まり返った。

「ひっ……!」

少女の一人が涙目になる。

「な、何でそんな……」

「何で?」

リュシアンが一歩近づく。

少女たちが一歩下がった。

「自分じゃ何もできねぇくせに、神様神様って縋りついてりゃ何とかしてもらえると思ってんのか? めでてぇ頭してんなぁ!」

「…………」

「弱いなら鍛えろ! 頭使え! 自分で立て! それすらやらねぇクズが『神様のお役に立ちたいですぅ』だぁ?」

わざとらしく少女の声を真似る。

「反吐が出るぜ! 二度と来んな! さっさと帰れよゴミクズがぁ!!」

「ひぃぃっ!」

女子生徒たちは完全に怯えきり、泣きながら礼拝堂を飛び出していった。

「…………」

「…………」

エリシアとアリエルは、並んだまま微動だにしなかった。

リュシアンは近くにいた従者に「今のクズ共、奉仕の名簿から外しとけ」とだけ言うと、そのまま奥へ戻っていった。

「…………」

エリシアが、ほんの少しだけ首を動かす。

隣を見る。

アリエルは真っ白になっていた。

「……ねえ」

「…………」

「天使って言ったわよね?」

「…………」

返事がない。

「孤児の子にも優しいって」

「…………」

「皆から天使様って呼ばれてたって」

「…………」

アリエルの唇が震え始めた。

「知らない」

「え?」

「私、あんなリュシアン知らない……」

心底混乱している顔だった。

「今世の記憶にもないの?」

ぶんぶん。
ものすごい勢いで首を振る。

「ない! 絶対ない! 私が見たリュシアン、ずっとニコニコしてたもん! あんな喋り方、一回もしてなかった!」

「じゃあ、今の何なの!?」

「私が聞きたいわよ!!」

幸い、二人は入口近くにいたので、その声が奥まで届くことはなかった。

アリエルがエリシアの袖を掴む。

「帰ろう」

「そうね」

「今すぐ帰ろう」

「全面的に賛成」

二人はそっと後退し、音を立てないよう礼拝堂から抜け出した。

外へ出た瞬間。

二人揃って、大きく息を吐く。

「…………」

「…………」

しばらく無言だった。

やがてエリシアが口を開く。

「アリエル」

「何」

「攻略対象、三人目ね」

「言わないで」

「レオンハルト様が筋肉の塊」

「言わないで!」

「セドリック様がキモオタ魔術研究狂」

「やめて!!」

「リュシアン様が――」

「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」

アリエルが頭を抱えた。

「何でよぉぉぉぉ!! リュシアンだけは無事だと思ったのに!! 今世の記憶でも普通だったのに!!」

「私も今度こそ大丈夫だと思ったわ……」

「『弱いメス豚』って何!? 天使どこ行ったの!? 教皇の息子でしょう!? 神様側でしょう!?」

「神様も救わないって本人が言ってた」

「言わないでぇぇぇ!!」

アリエルがその場にしゃがみ込んだ。

エリシアは空を見上げる。

残る攻略対象は、隠しキャラの魔族王子アシュレイ。
そして、所在不明のジーク。

アシュレイに至っては、原作ではたった一人の孤独な魔族だったはずなのに、この世界では魔王も魔族も復活している。嫌な予感しかしない。

ジークも所在不明のうえ、なぜかアリエルが名前を聞いただけで怯える始末だ。

「私の乙女ゲームがぁぁぁ……」

隣でアリエルがすすり泣く。

エリシアは、その背中を撫でながら遠い目をした。

筋肉。
キモオタ。
暴言悪魔。

(これ、ヒロインが一番可哀想なんじゃない?)

悪役令嬢の自分より、ヒロインが詰んでいるのかもしれない。


第6話 ヒロイン、乙女ゲームを辞める

「もう駄目……」

アリエルはテーブルへ頬をつけたまま、虚ろな目で呟いた。

「私、何のために乙女ゲームのヒロインに転生したの……?」

「私に聞かれても……」

「ずっと夢だったのよ。乙女ゲームの世界に転生するの」

「そうなの?」

「目が覚めたら『花恋』のヒロインで、前世の記憶まで戻ってきて! これから王子様とか宰相家の御曹司とか天使美少年とかに囲まれて、キラキラした学園生活が始まるんだって思ったのよ!」

エリシアは今日一日を思い返した。

筋肉王子。
瓶底眼鏡。
暴言悪魔。

「…………」

「こんなの詐欺よ……」

「まあ……気持ちは分かるわ」

エリシアとしては、乙女ゲームの世界へ転生したかったわけではない。

むしろ悪役令嬢として処刑される可能性がある以上、ありがた迷惑ですらある。

しかし、自ら望んで夢の世界へ来たと思ったアリエルにとっては、精神的落差がさらに大きいのだろう。

「もう攻略対象なんて……」

アリエルが呻く。

「まともな人、一人も残ってないじゃない……」

「まだ全員見たわけじゃないでしょう」

「ジーク様は行方不明だし、考えるだけで何故か恐ろしい気分になるし……」

「そこは私も気になるけど」

「もう一人なんて――」

そこで、アリエルの動きが止まった。

「…………」

ぱちり。
瞬きをする。

ゆっくりと顔を上げた。

「あ」

「何?」

「ああっ!!」

突然大声を上げた。

「な、何よ!?」

「いるじゃない!」

アリエルの瞳に、急速に光が戻っていく。

「誰が?」

「隠しキャラよ!!」

椅子から身を乗り出し、両手をテーブルへ叩きつける。

「そうだ! まだアシュレイ様が残ってた!!」

「アシュレイ……」

その名前を聞いて、エリシアも『花恋』の攻略本に載っていた一枚のスチルを思い出した。

アシュレイ・ヴァルゼリア。
『花咲く王国で恋をして』に登場する攻略対象の中でも、特殊な条件を満たした場合にのみ出会うことのできる、いわゆる隠し攻略対象である。

その正体は、人間ではない。遥か昔に封印された魔族のプリンスだった。

黒と見紛うほど深い紫色の髪を腰まで伸ばし、長い前髪の奥から覗く瞳は、血のような赤。
青白い肌に、細身ながらすらりとした長身。
人間離れした端正な顔立ちは、華やかなレオンハルトとも、理知的なセドリックとも違う、冷たく妖しい美しさを持っていた。
攻略対象の中でも「美形」というより、「魔性」という言葉の方が似合う男である。

そしてアシュレイが人気だった最大の理由は、その美貌ではない。

彼が抱えていた、あまりにも深い孤独だった。

原作の世界では、遥かな昔に魔族たちは西大陸に封印されている。
それから長い年月が流れた後、なぜかアシュレイだけが一人、封印から目を覚ました。

だが、父も家族も同族も、仲間は誰一人としていなかった。

それだけではない。

魔族であるアシュレイの身体から自然に溢れる魔素は、普通の人間にとって毒に近い性質を持っていた。
近くにいるだけで体調を崩し、長時間そばにいれば命に関わる。

だからアシュレイは、人間の暮らす大陸へ行っても、誰にも近づくことができなかった。

誰かと話すことも。
誰かと食事をすることも。
ましてや、誰かに触れることなどできない。

たった一人で目覚め。
たった一人で生きる。

それを長い間続けてきたのである。

性格は物静かで、他人に対して警戒心が強い。
口数も少なく、初対面では突き放すような冷たい態度を取るため、一見すれば人間嫌いのようにも見える。

だが、本当は違う。
人が嫌いなのではない。

近づきたくても、近づけないだけなのだ。

そんなアシュレイが初めて出会った。
自分の魔素に耐えることのできる人間。

――それが、原作ヒロインのアリエルだった。

二人の出会いイベント。
アシュレイとアリエルの指先が触れる。
本来ならその瞬間、普通の人間なら強烈な体調不良を起こす。

ところが、アリエルは何ともなかった。

『……あなたは、平気なのですか?』

アシュレイが初めて大きく目を見開く。

そして、自分に触れたままの少女の手を呆然と見つめる。

その一枚絵は、『花恋』屈指の名スチルとして有名だった。

原作のアリエルは、平民としては異例のLv100。
平和な原作世界では一般人のレベルが20前後であり、Lv100は王国最強クラスに届くほどの異常な数値だった。
その高い能力のおかげで、アリエルだけがアシュレイの魔素に耐えることができたのである。

生まれて初めて、自分の隣にいても壊れない人間。

アシュレイにとってアリエルは、恋愛対象になる以前に、この世界で唯一、自分は誰かと一緒にいてもいい――そう思わせてくれる存在だった。

だからこそ、ルートが進めば進むほど、彼の想いは重くなっていく。
普段は冷静で、感情をほとんど表へ出さない男が、ヒロインを失いそうになった時だけ、初めて取り乱す。

『頼む……行かないでくれ』

伸ばした手が震える。

『また一人になるくらいなら……私は……』

長すぎる孤独。
ようやく見つけた、触れることのできる唯一の存在。

そのためアシュレイの感情は、恋愛を通り越して、どこか依存にも近かった。

重い。
とにかく重い。
だが、それが堪らなく良い。

という女性ファンを、大量に沼に沈ませた隠しルートである。

ちなみに、アシュレイルートを解放するには、他の正規攻略対象の誰とも恋仲にならないことが条件だった。

つまり――

「今の私、条件完璧じゃない!?」

アリエルが勢いよく立ち上がった。

「レオンハルト様とは恋仲になってない!」

そもそも顔すら見てもらえていない。

「セドリック様ともなってない!」

遠くから研究室を覗いただけである。

「リュシアンともなってない!」

怖くて逃げてきた。

「ジーク様とも会ってない!」

名前だけで震えている。

「全部条件満たしてる!!」

「そういう考え方もあるのね……」

エリシアは感心した。

凄まじい前向きさだった。
先ほどまで完全に死んでいたアリエルの瞳が、今や爛々と輝いている。

「そうよ! 正規攻略対象が全部駄目だったのは、きっとアシュレイ様ルートへ行けってことなのよ!」

「いや、それは……」

「これこそ運命!」

「ちょっと待って」

「隠しルートへ誘導するための強制イベントだったんだわ!」

「だから待ってって」

アリエルは聞いていない。

「アシュレイ様なら大丈夫! 元々ほとんど人間社会と関わってないんだから、改変される要素が少ないもの!」

「…………」

「原作通り孤独に生きて、今もどこかで私との運命の出会いを待ってるかもしれない!」

両手を胸の前で組み、完全に復活していた。

「そうよ! 私にはまだアシュレイ様がいる!!」

「…………」

エリシアは黙った。そして考えた。

アシュレイルート。
孤独な魔族で、唯一復活した王子。
普通の人間では近づくことすらできず、Lv100のヒロインだけが触れられる。

「…………」

だが現在の世界では――
魔王の封印は解かれ、魔族も復活し、一般人ですらLv100前後が珍しくない。

「…………」

アリエルを見る。

「何?」

「……あのね」

「何よ?」

言うべきだろうか。
せっかく立ち直ったところなのに。

だが、どう考えても成立しない。

「その、アシュレイ様って、原作では……魔族の中で一人だけ復活したから孤独だったのよね?」

「そうよ!」

「この世界、魔王が復活してるわよ」

「…………」

アリエルの笑顔が止まった。

「魔王だけじゃなくて、魔族そのものが復活しているわよね?」

「…………」

「ということは、アシュレイ様の家族も仲間もいる可能性が高いんじゃない?」

「…………」

「少なくとも『世界でたった一人の魔族』ではないと思う」

「…………」

アリエルの顔から少しずつ血の気が引いていった。

だがエリシアは、もう一つ気づいてしまっていた。

「それから」

「ま、待って」

「原作であなたが特別だった理由って」

「待ってエリシア」

「Lv100だから、アシュレイ様の魔素に耐えられることでしょう?」

「それ以上言わないで」

「でも今のカイラード王国だと――」

「言わないでぇぇぇぇ!!」

無理だった。

「Lv100なんて普通にいるわよ」

「…………」

アリエルが固まった。

「この学園だって、平民の入学基準がLv100でしょう?」

「…………」

「Lv150以上なら特待生よ」

「…………」

「つまり、あなた以外にもアシュレイ様の魔素にある程度耐えられそうな人、普通に――」

「う」

アリエルの顔がくしゃりと歪んだ。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」

泣いた。

本日何度目か分からない大号泣だった。

「私のヒロインチートまでなくなってるぅぅぅぅ!!」

「ちょ、ちょっと落ち着いて」

「唯一じゃないじゃん!!」

「まあ……そうね」

「私じゃなくてもいいじゃん!!」

「それは……」

否定できない。
むしろ、現在のカイラード王国ならLv100程度では特別扱いすらされない。

原作では、世界でただ一人、アシュレイに触れられる少女。
……のはずだったヒロインが、この世界では、
『アシュレイに触れられるかもしれない、その辺に結構いる人』
になってしまっている。

恋愛イベントとしては致命的だった。

「返してよぉぉぉぉ!!」

アリエルがテーブルへ突っ伏す。

「私の唯一無二設定返してよぉぉぉぉ!!」

「私に言われても……」

「レオンハルト様には顔すら見てもらえない! セドリック様は研究しか見てない! リュシアンは悪魔になってる! ジーク様は考えるだけで怖い! 最後のアシュレイ様まで私じゃなくてもいい!!」

「整理すると本当に酷いわね……」

「こんなの乙女ゲームじゃない!!」

アリエルが勢いよく顔を上げた。

涙でぐしゃぐしゃになった顔に、何かを決意したような光が宿る。

「もう嫌!!」

「アリエル?」

「ヒロイン辞める!!」

「…………はい?」

突然だった。

「私、ヒロイン辞める!!」

「ヒロインって辞められるものなの?」

「辞めるの!!」

アリエルは椅子から立ち上がると、拳を握り締めた。

「こんなクソゲーでヒロインなんてやってらんない!」

「クソゲーって……」

「アンタ悪役令嬢なんだから、もう好きに原作改変しなさいよ!」

「だから私が改変したわけじゃ――」

「攻略対象も全部あげる!!」

「いらない!!」

今日一番の速さで否定した。

筋肉王子。
キモオタ。
暴言悪魔。
原作ルート崩壊疑惑の魔族王子。

そして、所在不明のジーク。

押しつけられても困る。

「レオンハルト様も!」

「いらない!」

「セドリック様も!」

「いらない!」

「リュシアンも!」

「もっといらない!」

「アシュレイ様も!」

「だからいらないってば!」

「ジーク様も!」

「ジークは……ちょっと待って!!」

ぴたり。

アリエルが止まった。
エリシアも止まった。

「…………」

「…………」

数秒の沈黙。

「……ジーク様はいるの?」

「それとこれとは話が別でしょう!」

「ふーん」

「何よ、その顔!」

アリエルは涙を拭うと、ふんっと鼻を鳴らした。

「とにかく! 私はもう攻略対象なんて知らない!」

「だから、どうするのよ?」

「退学する!」

「…………え?」

今度はエリシアが固まった。

「退学?」

「そうよ!」

アリエルは、さも当然のように言った。

「私、平民だもん」

「…………」

「この学園だって、Lv100以上あるから希望して入っただけだし。別に通わなきゃいけない義務なんてないでしょ?」

その通りだった。
貴族学園という名前ではあるものの、現在の学園は王国の戦力育成機関でもある。

貴族の子女は全員強制入学。
一方、平民はLv100以上であれば希望者が入学できるという制度だった。

つまり、平民のアリエルは、自分の意思で入ってきた。

ならば当然、自分の意思で辞めることもできる。

「……ちょっと待って」

エリシアは嫌な予感がした。

「本当に辞めるの?」

「辞める!」

「今日入学式よ!?」

「だから何よ!」

アリエルは胸を張った。

「まだ授業一回も受けてないんだから、むしろ今辞めた方が傷が浅いでしょ!」

「そういう問題!?」

「善は急げよ!」

そう言うや否や、アリエルは鞄を掴んだ。

「でも、学園を辞めたらどうするのよ?」

「パン屋に戻る!」

「パン屋?」

今世のアリエルは、教会の孤児院を出た後、学園へ入るまで街のパン屋で働いていたらしい。

「店長さんにも『学園が嫌になったらいつでも戻っておいで』って言われてたし!」

「随分理解のある店長さんね……」

「私、パン焼くの結構好きだったのよ。毎朝早いけど、変な攻略対象に関わるよりか絶対マシ!」

「それは……」

エリシアは今日の出来事を思い返すと――
確かにパンを焼いていた方が平和そうだった。

「それに!」

アリエルはびしっと人差し指を立てた。

「王子様なんてもういらない!」

「そこまで言う?」

「普通の男でいい!」

たった一日で理想が大幅に下方修正されている。

「ちゃんと働いてて!」
「うん」
「普通に会話できて!」
「うん」
「筋肉が常識的で!」
「……うん」
「一人で『諸君!』とか叫ばなくて!」
「かなり条件が具体的になってきたわね」
「女性に『メス豚』とか言わない人!」
「それは最低条件じゃないかしら」
「そういうモブのイケメンを探す!!」

力強く宣言した。

原作では、王太子、宰相家の御曹司、教皇の息子、魔族の王子。
そんな華々しい男性たちから愛されるはずだったヒロインが、入学初日の昼には『普通に働いて、普通に会話のできる男』まで希望条件を下げていた。

「じゃあね、エリシア!」

アリエルは鞄を肩に掛ける。

「ちょっと待って!」

「何?」

「本当に私を置いていくの!?」

「だってアンタは辞められないでしょ?」

「…………」

エリシアの動きが止まる。

そうだった。

アリエルは平民。Lv100という入学条件を満たし、自分の希望でこの学園へ入った。
だから嫌なら辞められる。

一方、エリシアは公爵令嬢。
この国では、貴族の子女は将来の戦力として学園への入学を義務づけられている。

本人が嫌だろうが、Lv10だろうが、魔力ゼロだろうが、辞めるという選択肢は存在しない。

「…………」

エリシアの顔から、すうっと表情が消えた。

アリエルが申し訳なさそうに目を逸らす。

「……頑張って?」

「待って」

「じゃ!」

「待ってぇぇ!!」

アリエルが走り出した。

「貴方だけ逃げるのずるくない!? ヒロインなのに!」

「平民の特権よぉぉぉ!!」

「そんな特権、認めないぃぃ!!」

「攻略対象は全部アンタにあげるからぁぁぁ!!」

「だからいらないってばぁぁ!!」

アリエルのピンク色の髪が、みるみる遠ざかっていく。

「ちょっとぉぉ!!」

エリシアの叫びも虚しく。
アリエルはそのまま校舎の向こうへ消えていった。

あとに残されたのは、カフェテラスの椅子、飲みかけの紅茶。

そして――退学することすら許されない悪役令嬢。

「…………」

エリシアはしばらく、アリエルが消えた方向を呆然と見つめていた。

レオンハルト。
セドリック。
リュシアン。
アシュレイ。
そしてジーク。

さらに嫌な事実に気づく。

(攻略対象……全部押しつけられた)

もちろん受け取った覚えはない。
そもそも一人も欲しいと言っていない。

ジーク以外は。

なぜジークのことだけは、そういう風に思ってしまうのか分からないけど。

「…………」

エリシアは額を押さえた。

入学初日。
まだ授業すら始まっていない。

それなのに攻略対象はことごとく原作崩壊し、挙げ句の果てには、本来この物語の中心となるはずだったヒロインまで自主退学してしまった。

「…………」

エリシアは空を見上げた。

だが、公爵令嬢なので、辞められない。

「…………ずるい」

小さな呟きだけが、カフェテラスに虚しく響いた。


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